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第百一号哨戒艇〔昭和17年10月1日 海軍大臣 達第267号。〕(だいひゃくいちごうしょうかいてい)とは大日本帝国海軍の哨戒艇で鹵獲艦艇の一つ。元はイギリス海軍ののスレイシアン (HMS Thracian, D86) 。 == 艇歴 == 1918年1月10日起工。1920年3月5日進水。1922年4月1日就役。 第二次世界大戦開戦後は主に香港周辺で機雷敷設に従事。太平洋戦争が始まり日本軍が香港への攻撃を開始すると、スレシアンは九龍半島からの撤退を支援したり、日本軍陣地の砲撃や日本兵を載せた船を沈めたが、1941年12月16日に日本軍機の攻撃で損傷し、レパルスベイの銀洲で座礁した。 日本軍はスレイシアンを12月25日に捕獲した。これを修理・改造後、1942年(昭和17年)10月1日に第百一号哨戒艇と命名〔、特務艇の哨戒艇に類別された〔昭和17年10月1日 海軍大臣 内令第1822号。〕。同日付で本籍を横須賀鎮守府に、所属を横須賀防備隊にそれぞれ定められる〔昭和17年10月1日付 内令第1829号。〕。哨戒艇としての使用の他、海軍水雷学校の練習艦として使用された。 1943年(昭和18年)2月15日、特務艇の哨戒艇から除かれて〔昭和18年2月15日付 内令第239号。〕艦艇の哨戒艇となり〔昭和18年2月15日付 内令第238号。〕、本籍を横須賀鎮守府に、役務を横須賀鎮守府警備哨戒艇にそれぞれ定められる〔昭和18年2月15日付 内令第249号。〕。8月15日、役務を横須賀鎮守府練習哨戒艇に定められる〔昭和18年8月15日付 内令第1662号。〕。 1943年12月1日から1944年(昭和19年)1月18日まで改装工事を行い、備砲を撤去して魚雷発射管や爆雷の装備を行う〔「真実の艦艇史」p.126-127〕。3月15日、横須賀鎮守府練習哨戒艇の役務を解かれるとともに帝国哨戒艇籍から除かれ〔昭和19年3月15日付 内令第443号。〕、同日付で雑役船に編入され船名を特第一号練習艇(とくだいいちごうれんしゅうてい)、船種を練習艇、所属を海軍水雷学校にそれぞれ定められる〔昭和19年3月15日 海軍大臣 官房軍第301号。〕。この時に対水上射撃管制用の試製23号電探と、「北上」又は「大井」が重雷装艦から高速輸送艦となった際に下ろされた61cm4連装魚雷発射管1基等を装備し、魚雷発射訓練や新型電探の実験を行った〔「球磨・長良・川内型」p.121-123〕。 終戦時は横須賀に所在し、1945年(昭和20年)10月にイギリスへ返還され、1946年(昭和21年)2月に香港で解体された〔世界の艦船『日本海軍護衛艦艇史』、p. 103。〕。 ;第百一号哨戒艇長〔昭和18年2月15日付 達第23号による艦船職員服務規程第1条第2項の改正で哨戒艇長が新設されるまでは、本艇に限らず哨戒艇長は公式には存在しない。〕 #杉本安政 予備少佐/少佐:1943年2月15日〔昭和18年2月16日付 海軍辞令公報(部内限)第1054号。〕 - 1943年11月1日〔昭和18年11月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1253号。〕 #福地秋二 少佐:1943年11月1日〔 - 1944年3月15日〔昭和19年3月15日付 海軍辞令公報(部内限)1374号。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第百一号哨戒艇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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