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スレブレニツァの虐殺〔「スレブレニッツァ」の表記もみられる。〕(スレブレニツァのぎゃくさつ、、)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件である。ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍(; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人が殺害された〔佐原徹哉 (2008)〕〔 〕〔 〕〔 〕〔シェリ・フィンク (2004)〕。スレブレニツァ・ジェノサイド(、)ともいう。この時、スルプスカ共和国軍に加えて、セルビアを拠点とする準軍事組織「サソリ」()が虐殺に加担していた〔国立公共ラジオ番組"All Things Considered, June 3, 2005"、雑誌ヴレメのデヤン・アナスタシイェヴィッチ(Dejan Anastasijevic)がメリッサ・ブロック(Melissa Block)に語る:「この特定の準軍事組織を構成するのはボスニアのセルビア人市民ではなく、これはセルビアから来た組織であり、実際に組織を構成している人々はセルビアの警察軍である。つまりこれはセルビアからきたセルビアの兵士がスレブレニツァの虐殺に加担していた揺るぎない証拠である。セルビアの当局は、セルビアからの軍がボスニア紛争に加担していることを否定し、ボスニアのセルビア人のみであったとしていたが…」〕。 ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方不明となった人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている。2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリのスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された。 なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。 == 概要 == === 紛争に至るまで === ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた〔1991年の国勢調査によると、ボスニア・ヘルツェゴビナ全土における民族ごとの人口比率は、ムスリム人が43.7%、セルビア人が31.4%、クロアチア人が17.3%などとなっている()〕。1990年にユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め〔〔多谷千香子 (2005)〕、ボシュニャク人のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スレブレニツァの虐殺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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