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スロバキア民衆蜂起(スロバキアみんしゅうほうき、またはスロバキア国民蜂起、スロバキア民族蜂起、SNP, Slovenské národné povstanie)は、第二次世界大戦中にスロバキア共和国の軍や民衆が起こした武装闘争である。1944年8月29日にヨゼフ・ティソによるドイツ傀儡政権を倒しチェコスロバキア共和国を再建することを目的に、中部スロバキアのバンスカー・ビストリツァで勃発した。蜂起軍はドイツ軍に制圧されたものの、その後もソ連軍による1945年のスロバキア解放までゲリラ戦が続けられた。 民衆蜂起は戦後、大戦中におけるスロバキア人のレジスタンス運動の象徴とされ、さまざまな派閥が自らの功績を主張した。のちのチェコスロバキア共産党政権は、スロバキア共産党が主体となった闘争だったと総括したが、実際にはスロバキア軍の将校や兵士、スロバキア共産党パルチザン、宗教関係者などを含む、国内のあらゆる階層の反ナチス政治集団がそれぞれ戦闘や支援活動に参加していた。ただし、核となる組織や戦力がなかったため、スロバキア全土の反乱闘争には発展しなかった。 == 背景 == ロンドンのチェコスロバキア亡命政府指導者エドヴァルド・ベネシュは、1943年からスロバキア軍の反体制分子との連絡を取り始め、一斉蜂起に向けた準備に着手した。同年12月には亡命政府およびチェコスロバキア民主党、チェコスロバキア共産党およびスロバキア共産党、スロバキア軍の反体制分子が、地下組織のスロバキア国家評議会を結成してクリスマス協定に署名し、戦後ただちにベネシュを首班としてチェコスロバキア共和国を再建することを約束した。 スロバキア軍部隊による蜂起軍は1944年3月、スロバキア軍参謀総長ヤン・ゴリアン中佐の指揮のもと、中部から東部にかけての拠点に資金や弾薬などを備蓄した。蜂起に備えて秘密裏に組織した部隊は「チェコスロバキア内務軍」「第一チェコスロバキア軍」を自称。またスロバキア兵士約3200人が、パルチザンやソ連軍に合流した。 1944年夏、パルチザンはスロバキア北西部の山間部を中心に、占領ドイツ軍に対する攻撃を強化。同年7月にはポーランドのソ連軍部隊およびポーランド赤軍がスロバキアに向けて進軍を開始し、同年8月までにスロバキア東北部の国境40km地点にあるクロスノに達した。この間、スロバキア空軍東部軍管区部隊を含む蜂起軍の主力部隊は、極秘裏にプレショフへ移動した。 この時点では以下の2つの作戦案が考えられていた。主力部隊の参謀長を務めるヴィリアム・タルスキー大佐は、スロバキア国家評議会および蜂起軍司令部に対し、状況に応じて2つの案のどちらかに従って蜂起することで合意していた。 # イワン・コーネフ指揮下のソ連軍第1ウクライナ方面軍到着を待ち、ポーランドとスロバキアを結ぶ要衝のデュクラ峠を確保したのち戦闘を開始する。 # 蜂起軍ヤン・ゴリアン司令官の指令に基づきただちにドイツ軍への攻撃を開始し、ソ連軍が到着するまで国内での戦闘を継続する。 こうした中、1944年8月27日、キエフ(ウクライナ)のソ連パルチザン司令部指揮下のパルチザン部隊が、政変で連合国側についたルーマニアに侵攻する途中だったドイツ軍部隊を北西部のマルチンで襲撃。ドイツ軍兵士30人を殺害した。このためドイツ軍は反乱鎮圧を目的に翌日からスロバキア共和国全土の占領を開始し、スロバキア国防大臣のフェルディナンド・チャトロシュ将軍は8月29日午後7時、国営放送でドイツ軍のスロバキア占領を発表した。 この発表を受けて蜂起軍司令部はただちに武装蜂起の暗号指令を蜂起軍全軍に送った。しかし主力部隊はタルスキー参謀長が行動を起こさず、翌8月30日に空軍部隊に対してソ連軍との合流地点としていたポーランドへの飛行を禁止した。同日午後には部隊は戦闘を行わないまま武装解除され、蜂起は中心となる戦力を欠いたまま始まることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スロバキア民衆蜂起」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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