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スロボダン・ミロシェヴィッチ(、1941年8月20日 - 2006年3月11日)は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア大統領(第3代)、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。欧米からは独裁者と見られている。欧州諸国の国家元首ではベルルーシ共和国のルカシェンコ大統領と並び、いわゆる戦争犯罪に手を染めた人物として有名であり、2003年の新ユーゴスラビア解体後、欧米からはヨーロッパに最後まで残った全体主義政権の頭領にして独裁者として知られ、1992年のユーゴスラビア社会主義連邦崩壊後は一貫してNATO諸国と対立し、身柄を一連のユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として拘束され、戦犯として国際司法裁判所のあるハーグで起訴されていた2006年3月11日に、「人道に対する罪」(欧州ではナチスドイツ関係者を裁いたニュルンベルク裁判以来の適応となるジェノサイド罪で被告となっていた)に対する国際検事団による協同審議中に持病が悪化し、冷戦時代を締めくくる戦犯としてのミロシェビッチ被告は、収監先のオランダ王国ハーグにて獄死した。満65歳没。 == 生涯 == ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる。父親は家族を棄て、また母親、伯父も自殺している。 少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。ベオグラード大学法学部卒業後、ベオグラード情報局、ガス産業、ベオグラード銀行等、実業界で活躍した。政界に転身し、1978年 - 1982年、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、1987年、コソヴォ訪問時、アルバニア人から迫害されたセルビア人と出会い、彼は「もはや侮辱されることはないだろう」と語った。それ以来、セルビア民族主義者中で人気を獲得し始めた。1986年にセルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長に就任。自身の権力強化のために、セルビア民族主義を国民に扇動し、利用した。 1987年にが辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。スタンボリッチは2000年に何者かに誘拐され、2003年に死体で発見された。セルビア国家保安庁・特殊作戦部隊による犯行と見られている。 1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。1992年にミラン・パニッチ首相を破り再選された。1997年にはセルビア共和国大統領の任期切れを前にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)第3代大統領に就任した。大統領になってからは、治安機関から出される報告書に毎日目を通していたといわれ、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。 1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認することとなる。 2000年秋、再選を目指し国民による直接投票となったユーゴスラビア連邦大統領選挙の際、選挙不正に怒った国民の抗議行動、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合のヴォイスラヴ・コシュトニツァに譲った。コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。同年7月には同国憲法に違反して国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(オランダ・ハーグ)に身柄を移送され、以降人道に対する罪などで裁判が行われた。上記のスタンボリッチ殺害の容疑も、含まれている。 高血圧など体調の不具合という理由、また容疑事実の立証がなされなかったため、裁判は非常に長引いた。2006年3月11日朝、収監中の独房で死亡しているのが発見された。死因は心臓発作とされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スロボダン・ミロシェヴィッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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