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ズバイル・イブン・アウワーム : ミニ英和和英辞書
ズバイル・イブン・アウワーム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ズバイル・イブン・アウワーム : ウィキペディア日本語版
ズバイル・イブン・アウワーム[ちょうおん]

アッ=ズバイル・イブン・アル=アウワーム(、Az-Zubayr ibn Al-Awam 、594年? - 656年)はイスラム教初期の人物で、預言者ムハンマドの直弟子(教友、サハーバ)の一人に数えられる。クライシュ族のアサド家の出身。父のアウワームはムハンマドの妻ハディージャの兄弟、母のサフィーヤ・ビント・アブドゥルムッタリブはムハンマドのおばであり、ズバイルはムハンマドの従兄弟にあたる〔 医王「ズバイル・イブン・アウワーム」『岩波イスラーム辞典』、534頁〕。正統カリフアブー・バクルの娘アスマーを妻とした。
ムハンマドの近親であるズバイルは最初期にイスラームを受容したと考えられており、ムハンマドはズバイルに「ハワーリー(使徒)」という仇名を与えた〔。656年にムハンマドの寡婦アーイシャ、同じサハーバのタルハとともにカリフアリーに反乱を起こすが、ラクダの戦いで敗死した。
== 生涯 ==

=== ムハンマド存命時 ===
594年頃にズバイルはメッカ(マッカ)で生まれたと言われている〔Ibn Saad/Bewley (2013) 75頁〕。8世紀アッバース朝時代の伝承学者イブン・イスハークは、イスラームの教えを受け入れたばかりのアブー・バクルの呼びかけに応じて改宗した最初期の信徒の中に、ズバイルの名前を記している〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』1、243頁〕。
ムハンマドたちがメッカ(マッカ)の住民から迫害を受けた際にウスマーンら一部の信徒はエチオピアに避難し、ズバイルも避難者の一団に加わっていた。ズバイルはエチオピア移住団の中で最年少であり、エチオピア王ナジャーシーに対する反乱が起きた際に戦場に赴き、ナジャーシーの勝利を確認して仲間たちに吉報をもたらした〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』1、338-339頁〕。後にズバイルはメディナ(マディーナ)のムハンマドと合流し、多くの戦闘に参加する。
624年バドルの戦いにおいてはムハンマドの従兄弟アリーと共に斥候を務め、水を補給するメッカのクライシュ族に攻撃を加えた〔イブン・イスハーク『預言者ムハンマド伝』2(イブン・ヒシャーム編註、後藤明、医王秀行、 高田康一、高野太輔訳, イスラーム原典叢書, 岩波書店, 2011年3月)、192,273,277頁〕。629年のでは、ズバイルはムハンマドに敵対するナディール族の戦士ヤースィルを一騎打ちで破ったことが伝えられている〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、157頁〕。ハイバルの攻略後、ズバイルは遠征に参加した他の教友や部族集団と同様に、18に区画された土地の一つを授与される〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、180頁〕。翌630年、メッカ攻撃に際してムハンマドはズバイルに下手からメッカを攻撃するよう命令し、ズバイルは指示に従って行軍した。
ムハンマドが没した時、ズバイルはアリー、タルハとともにファーティマ(アリーの元に嫁いだムハンマドの娘)の家に立て篭もり、新たな指導者を選出する場に姿を現さなかった〔イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、588頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ズバイル・イブン・アウワーム」の詳細全文を読む




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