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セイド・サイード : ミニ英和和英辞書
セイド・サイード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

セイド・サイード ( リダイレクト:サイイド・サイード ) : ウィキペディア日本語版
サイイド・サイード[ちょうおん]

サイイド・サイード・ビン・スルターン・アル=サイードSayyid Said bin Sultan Al-Said1797年6月5日 - 1856年10月19日)は、オマーンの第5代君主(在位:1806年〔松尾昌樹『オマーンの国史の誕生』(宇都宮大学国際学部国際学叢書, 御茶の水書房, 2013年2月)、9頁〕 - 1856年10月19日)。オマーンの最盛期を現出し、サイード大王とも呼ばれる。オマーンの勢力を東アフリカにまで広げ、オマーン海上帝国と呼ばれる大交易帝国を築き上げた。
==東アフリカへの進出==
サイードが即位したとき、オマーン本土の経済は少しずつ衰えていた。18世紀にはエジプトの政情不安によってペルシア湾経由での交易が盛んになっており、ペルシア湾交易の喉首を押さえるオマーンの首都・マスカットは交易船でにぎわったものの、19世紀になるとエジプトの状態は回復に向かっており、マスカットの賑わいは過去のものとなりつつあった〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、136頁〕。オマーンは17世紀ヤアーリバ朝の時代にポルトガルを駆逐し、東アフリカに勢力を伸ばしたものの、その後のオマーン本土の混乱によりアフリカ諸都市のオマーン人豪族が相次いで独立し、サイードの時代にはザンジバルだけがかろうじてオマーンの支配下に残っている状態だった〔福田「ペルシア湾と紅海の間」『イスラーム・環インド洋世界』、138頁〕。
1828年、サイードは自ら旗艦リバプール号(イギリスに注文した帆船)に乗り込み、モンバサをはじめとするアフリカ東部沿岸の諸都市を攻撃した。ヤアーリバ朝からリワリ(総督)の地位を与えられたモンバサのマズルイ家はブーサイード家の支配を認めず、サイードとマズルイ家の戦争は1837年まで続いた〔富永『スワヒリ都市の盛衰』、47頁〕。サイードはソマリアからモザンビークとの国境にいたる東アフリカの沿岸をオマーン領に組み入れ、東アフリカのスワヒリ諸都市は史上初めて緩やかな連合体として統一を達成する〔富永『スワヒリ都市の盛衰』、51頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サイイド・サイード」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Said bin Sultan, Sultan of Muscat and Oman 」があります。




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