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セク・トゥーレ(''Ahmed Sékou Touré''、1922年1月9日 - 1984年3月26日)は、フランスから独立したギニア共和国の初代大統領(1958年 - 1984年)。植民地支配に抵抗した国民的英雄サモリ・トゥーレの曽孫。 == 生涯 == ファラナのマリンケ族に生まれ、郵便労働者として労働組合を基盤に政治に進出し1952年にギニア民主党(PDG)の書記長に就任。1953年にゼネストを指導して影響力を拡大し1956年にフランス国民議会議員に選出された。 1958年のフランス第五共和政憲法のもとの住民投票で、他の植民地がフランス共同体内の自治共和国となった中で、唯一完全独立を選んだ。このときトゥーレは、「隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」と言ったといわれる。しかし、フランスはギニアの完全独立を認めるのと引き換えに一切の援助を打ち切り、それまで植民地行政官として働いていた白人たちも一切合切をフランス本国に持ち帰った(書類どころか事務机まで持ち去ったという)。 そのためギニアの行政・経済は独立の瞬間に麻痺状態となったため、トゥーレはソ連と結ぶことでこの難局を切り抜けようとした。社会主義路線をとり、1967年からは中華人民共和国の人民公社の影響を受けた地方組織が作られている。それでも成果をあげることができず同時に政敵および人権論者の抑圧を行ったため、1977年に物資の不足などから暴動が起こり、国内経済を自由化政策に変更したが成果は上がらず、経済の不振は続いた。 国内の不満を抑えるために独立時から独裁政治を行い、その統治下においては密告や政治犯の粛清が横行し、恐怖政治の様相を呈した。アフリカ統一機構初代事務総長であるディアロ・テリなど、反体制派とみなされた者は首都コナクリ近郊の政治犯収容所、に送られ、食事を与えられないまま餓死させられるなどして虐殺された。当時、ギニア人口500万人のうち、200万人がセネガルやコートジボワールなど近隣諸国に脱出したといわれている〔勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p94〕。 また、自身と同じマリンケ族を優遇し、フラニ族など少数派を迫害した。そのため、さらに不満は増大し、1984年にトゥーレが心臓疾患により療養先のアメリカ合衆国・クリーブランドで死亡すると、すぐさま軍のランサナ・コンテが蜂起し、無血で政権を奪取。コンテはただちに1000人の政治犯を解放した。 トゥーレは首都コナクリのコナクリグランドモスク内の霊廟に埋葬されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セク・トゥーレ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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