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セザール・ド・ノートルダム : ミニ英和和英辞書
セザール・ド・ノートルダム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

セザール・ド・ノートルダム : ウィキペディア日本語版
セザール・ド・ノートルダム[ちょうおん]

セザール・ド・ノートルダムCésar de Nostredame, 1553年12月18日 - 1630年?)は、フランスの詩人歴史家画家ノストラダムスの名で有名な医師・占星術師ミシェル・ド・ノートルダムの息子。フランス語やプロヴァンス語による詩を多く残した。なお、父と異なり、「ノストラダムス」の名はほとんど用いていない。

== 生涯 ==

1553年12月18日、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現在のサロン=ド=プロヴァンス。以下、サロンと略記)で、ノストラダムスとその再婚相手アンヌ・ポンサルドの間に長男(第2子)として生まれた。幼年期、青年期のことは余りよく分かっていない。ただし、後年の彼自身の記述によれば、サン・バルテルミの虐殺の時にはパリに居合わせていたという。
画才にもある程度恵まれ、青年期には、パリの画家エチエンヌ・デュモンストリエ(1520年頃-1603年)やフランソワ・ケネル(1545年頃-1616年)に師事していたことがあったようである。登場人物のポーズや情景の色彩といった、視覚的な美しさを丁寧に描き出すことを特徴のひとつとする彼の詩には、そうした画家としての蓄積が投影されているとする専門家もいる。なお、音楽の方面でも、当時リュートの名手として知られていたとの指摘がある。
のち、サロンの名士として市政に携わり、1598年には筆頭執政官になっている。1600年11月に王妃マリー・ド・メディシスがサロンに入市した際に出迎えたのは、セザールであったという。
その傍ら作詩を中心とする文芸活動を行っていた。セザールがいつ頃から作詩を行っていたかは定かではないが、1590年代半ばから、複数の著作に詩や序文を寄せている。最初の単著は1598年の『サロン市の廃墟と悲惨』であったと思われる。以降、セザールの著作は、エクス=アン=プロヴァンス(以下エクスと略記)の出版業者ジャン・トローザン(活動期間:1597-1628年)やトゥールーズの出版業者コロミエ家によって、次々と刊行されていった。
また、具体的な期間は不明であるが、叔父ジャン・ド・ノートルダムの研究を引き継ぐ形で郷土史研究も行っていたものと推測され、その成果は1614年に1000ページを超える大著『プロヴァンスの歴史と年代記』として結実した。この文献は8部構成で、古代から16世紀末までのプロヴァンス史を扱っており、フレデリック・ミストラルも歴史に題材を採った作品のいくつかで、この文献を出典として挙げている。公刊には至らなかったものの、続編にあたる草稿の一部がカルパントラ市立図書館に現存している。
セザールの没年は1629年とされることが多かったが、現在では1630年1月23日付の遺言書が確認されている。なお、1604年にアダン・ド・クラポンヌの縁者に当たるクレール・ド・グリニャンと結婚したものの、子供はいなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「セザール・ド・ノートルダム」の詳細全文を読む




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