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セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボーン・イ・ブラガンサ : ミニ英和和英辞書
セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボーン・イ・ブラガンサ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボーン・イ・ブラガンサ ( リダイレクト:セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボン ) : ウィキペディア日本語版
セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボン[ちょうおん]

セバスティアン・ガブリエル・デ・ボルボン・イ・ブラガンサ(, , 1811年11月4日 リオ・デ・ジャネイロ - 1875年1月13日 ポー)は、ポルトガルおよびスペインの王族で、第1次カルリスタ戦争のカルリスタ派将軍。およびの2つの称号を有した。ポルトガル語全名はセバスティアン・ガブリエル・マリーア・カルルシュ・ジュアン・ジュゼ・フランシスコ・シャヴィエル・ディ・パウラ・ミゲル・バルトゥロメウ・デ・サン・ジェミニアーヌ・ラファエル・ゴンザーガ()。
== 生涯 ==
セバスティアン・ガブリエルはスペイン王子ペドロ・カルロスとその妻であるポルトガル王女マリア・テレザの間の一人息子として、リオ・デ・ジャネイロで生まれた。母はポルトガル王ジョアン6世の長女、父はスペイン王カルロス3世の孫息子であった。セバスティアンは誕生後まもなく「ポルトガルおよびブラジル王子」の称号を授けられたものの、スペイン王家との関係はカルロス3世の男系曾孫と血縁が遠い(男系女系の別なしでもカルロス4世の曾孫でしかない)ことから、当初「スペイン王子」の称号は与えられなかった。1824年になって、セバスティアンは大叔父のフェルナンド7世により「スペイン王子」の称号を授けられた。
1838年、セバスティアンの母親マリア・テレザは、叔父で実妹マリア・フランシスカの寡夫でもあるモリナ伯爵カルロスと再婚した。モリナ伯は当時、スペイン王位を請求して第1次カルリスタ戦争を起こしていた。マリア・テレザは1833年にスペイン王位継承問題が持ち上がった頃からモリナ伯を支援しており、内戦が起きてからはカルリスタ陣営の野営で暮らしていた。セバスティアンも第2次ビルバオ包囲戦などに参加しており、1836年12月30日にはカルリスタ北部軍の司令官となった。彼は1837年3月16日のオリアメンディの戦いデ・レイシー=エヴァンズ将軍率いるイギリス傭兵部隊に勝利しているが、マドリードへの進軍には失敗した。
1837年1月15日、スペイン議会は、女王イサベル2世に対する反逆罪を犯したとして、モリナ伯を支持してカルリスタ反乱に加担したスペイン王家の系累から、スペイン王位継承権を剥奪する法律を通過させ、セバスティアンはこれによりスペイン王位継承権者の列から排除された。セバスティアンの母親マリーア・テレザ、母方の叔父のポルトガル廃王ミゲル1世、継父モリーナ伯爵の3人の息子たち(セバスティアンの従弟たち)も、セバスティアンと同様に継承順位から外された。
セバスティアンは1832年5月25日に両シチリア王フランチェスコ1世の娘で従叔母にあたるマリーア・アマーリア(1818年 - 1857年)と結婚しており、1839年のカルリスタ敗北後は妻の実家を頼ってナポリに亡命していた。1855年に継父モリナ伯が亡くなり、また1857年には最初の妻とも死別した。1859年、セバスティアンはスペイン政府に帰順して帰国、同時に「スペイン王子」の称号をも回復した。翌1860年11月19日、セバスティアンは女王イサベル2世の義妹で従妹でもあるマリア・クリスティーナ王女と再婚した。マリーア・クリスティーナは先妻マリーア・アマーリアの姪であり、またセバスティアン自身の従叔母に当たった。セバスティアンと後妻マリーア・クリスティーナは5人の息子をもうけ、上の3人の息子たちはそれぞれ公爵位を授けられた。
1868年にイサベル2世が王位を追われた後、セバスティアンはスペイン・ブルボン家内のイサベル系とカルリスタ系を和解させようと試みたが、失敗に終わった。セバスティアンはピレネー山麓のフランス領ポーで死去し、エル・エスコリアル修道院に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Infante Sebastian of Portugal and Spain 」があります。




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