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セビーリャのイシドルス : ミニ英和和英辞書
セビーリャのイシドルス[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

セビーリャのイシドルス ( リダイレクト:イシドールス ) : ウィキペディア日本語版
イシドールス[ちょうおん]

セビリャのイシドールス(、、
英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人〔イシドールスがコンピュータ関連の聖人に選ばれた理由は、情報の断片を集めた彼の網羅的な著作が、今日でいうデータベースに通じると考えられたからである。参考:BBCの記事 聖者の紹介サイト (両方とも英語)〕。
30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニア〔今日のイベリア半島。すなわち現在のスペインポルトガルのある領域のことである。〕の地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。
イシドールスが生きたのは、古典文化が没落し、支配者の暴力と無学が横行していた時代であった。イシドールスは長兄レアンデル〔多くの教父たちと同様、現代に残された膨大な著作にも関わらず、イシドールスの生涯については実際にはほとんど明らかでない。それに対し、長兄レアンデルについてはイシドールス自身が信頼できる記録を残している。〕と協力して、西ゴート王の、アリウス派信仰からのカトリック改宗に関与した。そして兄の死後も彼はカトリック布教の努力を継続した。レアンデルと同じように、トレドセビリャで開かれた宗教会議619年第2回セビリャ教会会議633年第4回トレド教会会議のこと。:en:Fourth Council of Toledoを参照。〕で主導的な役割を演じた。レアンデルとイシドールスの兄弟は、その政治的手腕によって今日の歴史家から見ても意義のある変化をもたらしたともいえる。なぜなら、この教会会議で発議された西ゴート王国法令代議制政治の発達にとっても重要な契機となっているからである〔英語版記事による。『概説西洋法制史』(勝田有恒山内進森征一編著、ミネルヴァ書房、2004年、p.57)によれば、西ゴートの法典、わけても『アラリック法典』は12世紀まで中世西ヨーロッパにおいて、ローマ法の法源として最も尊重された。実際に議会の発達史において、イシドールスがどのような位置を占めるかについては英語版では明確に述べられていないが、イシドールスが主導した2回の宗教会議によって、教会に対する王権の優位が確立される一方、近代的な政教分離につながるような、教会の独立と自由の尊重が唱えられていることは後述する。政教分離の歴史#西ゴート王国政教分離の歴史#教会大分裂と公会議主義参照。〕。
農業の守護聖人でマドリードの守護聖人である聖イシドロ(en)とは別人である。
== 生涯 ==

=== 青年時代まで ===
イシドールスは4人兄弟の末子〔英語版記事ではフルゲンティウスを弟としている。しかしながら、『中世思想原典集成』5に基づき、この節の記述は英語版から大きく改める。以下、彼の家族について英語版記事に基づく記述を記しておく。
#父はセウェリアヌス、母はテオドラ。
#兄にレアンデル、弟に聖フルゲンティウス。姉妹にフロレンティナ。
〕で、セウェリアヌスを父に持つ。カルタヘナで生まれたと考えられており、母については数説あるものの定説はない〔『中世思想原典集成』5、p.506。〕。西ゴート王をカトリックに改宗させた功績により家族は全員列聖されている〔英語版記事に基づく。〕。
*長兄レアンデル (es)(Leander、549年以前 - 599年あるいは601年)は、イシドールスの前任のセビリャ大司教を務めた。青年時代のイシドールスは彼のもとで学んだと考えられている。西ゴート王レオヴィギルドのカトリック弾圧に立ち向かった。
*次兄フルゲンティウス (Fulgentius) はレカレド1世王がカトリックに改宗すると、エシハ司教を任された。
*姉フロレンティナ (Florentina) は修道女で、40以上の修道院と1,000人以上の修道士を統括した。
イシドールスの一家は、彼が幼い頃にセビリャへ移住し、彼は初等教育をセビリャの聖堂学校で修めた。ヒスパニアにおけるカトリックの教育機関としては最初のものであったと思われるこの学校で、イシドールスは七自由学芸〔いわゆる文法修辞学弁証論の「三学」 (trivium)、算術音楽幾何学天文学の「四科」 (quadrivium) のこと。〕を当時最も博識な学者に教授された。イシドールスは勉学に励み、驚くほど短い間にラテン語・ギリシア語ヘブライ語を習得した。彼が修道士になったことはおそらくないと考えられる〔『中世思想原典集成』5、p.508。英語版記事によれば、これは未解決な問題。〕が、修道士向けの十分な教育を受けており、いずれの修道会にも属していないにも関わらず、高い尊敬を集め、司教に叙任されて後は修道院を手厚く保護した。619年には修道院運動に反対した聖職者たちを厳しく批判した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イシドールス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Isidore of Seville 」があります。




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