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ルキウス・セプティミウス・セウェルス(、146年4月11日 - 211年2月4日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:193年4月9日 - 211年2月4日)である。セウェルス朝の創始者であり、アフリカ属州生まれ(属州民ではない)の皇帝となった。 ==概要== セウェルスはアウレリウス帝とコンモドゥス帝の親子二代に仕え、ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。ネルウァ=アントニヌス朝断絶後の騒乱(五皇帝の年)で頭角を現して有力な皇帝候補となり、ペルティナクス帝の死後に実権を掌握した。彼は存命中の皇帝であったディディウス・ユリアヌスを失脚させて自らが皇帝に即位した。 皇帝となった後、クロディウス・アルビヌスとペスケンニウス・ニゲルという二人の僭称帝との戦いが始まると、セウェルスはイッススの戦いでまずペスケンニウスを破り〔Birley (2000), p113〕、続いてクロディウスをルグドゥヌムの戦いで打ち破った〔Birley (2000), p125〕。また合わせてオスロエネ王国に対する外征にも勝利して、ローマ領を東方へ拡大した〔Birley (2000), p. 115〕。 体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画、パルティア戦争で敵国の首都クテシフォンを占領するなど大勝を得て、ティグリス川沿いまで領土を拡張した〔Birley (2000), p.130〕。同時に属州アラビア・ペトラエアに建設されていた城壁「リーメス・アラビクス」の補強を進め、東方属州の拡大と強化に熱意を注いだ〔Birley (2000), p. 137〕。自らの故郷である属州アフリカでも外征を行い、ガラマンテス族を破って「リメス・トリポリタヌス」を南の砂漠地帯にまで広げた〔Birley (2000), p. 153〕。 治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごし、北方はブリタンニアでピクト族との戦争に従事しつつハドリアヌスの長城を補修した〔Birley (2000), p. 170 - 187〕。セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで病没した〔Birley (2000), p. 187〕。死後は二人の息子カラカラとゲタが継承した為、新たな王朝としてセウェルス朝が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セプティミウス・セウェルス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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