翻訳と辞書
Words near each other
・ セルゲイ・ラヴロフ
・ セルゲイ・リアコビッチ
・ セルゲイ・リシュトバン
・ セルゲイ・リジコフ
・ セルゲイ・リジコフ (サッカー選手)
・ セルゲイ・リソショク
・ セルゲイ・リトビノフ
・ セルゲイ・リファール
・ セルゲイ・リャコビッチ
・ セルゲイ・リャブコフ
セルゲイ・リャプノフ
・ セルゲイ・リャプーノフ
・ セルゲイ・リロフ
・ セルゲイ・リーシュック
・ セルゲイ・ルキヤネンコ
・ セルゲイ・ルジェーンコ
・ セルゲイ・ルデンコ
・ セルゲイ・ルビンシュテイン
・ セルゲイ・レイファークス
・ セルゲイ・レイフェルクス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

セルゲイ・リャプノフ : ミニ英和和英辞書
セルゲイ・リャプノフ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


セルゲイ・リャプノフ : ウィキペディア日本語版
セルゲイ・リャプノフ

セルゲイ・ミハイロヴィチ・リャプノフ(, Sergey Michaylovich Lyapunov, 1859年11月30日 ヤロスラーヴリ - 1924年11月8日 パリ)は、ロシア作曲家ピアニスト。兄アレクサンドルは著名な数学者化学者
== 略歴 ==
8歳のときに天文学者の父がヤロスラーヴリで死去、母親に連れられ二人の兄弟とともにニジニ・ノヴゴロドに移り住む。同地に新設されたロシア音楽協会支部の公開講座に学び、ニコライ・ルビンシテインの推薦により、1878年モスクワ音楽院に進学。フランツ・リストの門弟カール・クリントヴォルトピアノを、セルゲイ・タネーエフに作曲を師事。
1883年に卒業後、バラキレフと初めて出逢い、それから1885年サンクトペテルブルクに行きバラキレフ宅に身を寄せ、バラキレフ晩年の時期において最も重要な一員となる。自らもニジニ・ノヴゴロドに生まれ育ったバラキレフは、この控えめな青年ピアニストを保護し、1860年代に「ロシア五人組」のメンバーに対して行なったように、リャプノフ青年の成長を近くで見守った。その後リャプノフは帝国地理協会の民謡収集部に関係し、帝室礼拝堂における准音楽監督としてリムスキー=コルサコフに従った。その後1911年よりサンクトペテルブルク音楽院教授に就任。革命の時代を過ごした後、1923年パリに去り、同地のロシア亡命者の子息のために音楽学校を組織したが、その翌年に心臓発作により死去。パリのバティニョール墓地に埋葬されている。最後の大作である《交響曲第2番》は死後の1958年に初めて出版された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「セルゲイ・リャプノフ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.