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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
セルゲイ・グリゴリエヴィッチ・エリセーエフ(、Sergei Grigorievich Eliseev、フランス亡命後は、セルジュ・エリセーエフ、Serge Elisseeff、1889年-1975年)は、ロシアの日本学者、東洋学者である。日本語では「英利世夫」と自称していた。ハーバード大学教授、ハーバード・イェンチン研究所 Harvard-Yenching Institute 所長などを歴任。''、Sergei Grigorievich Eliseev、フランス亡命後は、セルジュ・エリセーエフ、Serge Elisseeff、1889年-1975年)は、ロシアの日本学者、東洋学者である。日本語では「英利世夫」と自称していた。ハーバード大学教授、ハーバード・イェンチン研究所 Harvard-Yenching Institute 所長などを歴任。 == 生涯 == サンクトペテルブルク生まれ。生家のエリセーエフ家は、ロシア有数の食料品店業者「エリセーエフ商会」を営む大富豪で、モスクワ、サンクトペテルブルクに現在も豪奢な店舗が残っている。11歳のときに、パリ万国博覧会を見学し、東洋に対する興味を持つようになる。その後、エリセーエフは、ベルリン大学に留学するが、ここで日本の言語学者・新村出(しんむら・いづる)に出会ったのを機に日本留学を志す。 1908年(明治41年)東京帝国大学国文科に入学する。エリセーエフの東京帝大入学に当たっては、新村のほか、芳賀矢一、上田万年など東京帝大の教授陣が尽力している。1912年(明治45年)東京帝大国文科を4席で卒業する。卒業式には明治天皇が臨席し、最前列で天皇を迎えるという栄誉を得た。 この間、夏目漱石、小宮豊隆らと親交を結び、漱石を中心とする文人の集まりである「木曜会」にも出入りしていた。漱石からは「五月雨や 股立ち(ももだち)高く 来る(きたる)人」と署名のある『三四郎』を貰い、終生、家宝にして愛読したという。 帰国後、ペトログラード大学(現在のサンクトペテルブルク大学)で日本語の講師となったが、ロシア革命が勃発し、ブルジョワであったエリセーエフは投獄され、獄中で『それから』を読んでいる。ソビエト政権が成立するに至って1920年一家を伴いフィンランドに亡命する。この間の苦難に満ちた生活については、『赤露の人質日記』に詳述されている。 1921年フランス・パリに移り、ソルボンヌ大学で教鞭を執るようになり、1931年フランス国籍を取得する。フランス時代には、旧友谷崎潤一郎、志賀直哉の作品を翻訳し、日本文学を中心に西欧に日本紹介を盛んに行う。〔永井荷風も日記『断腸亭日乗』の中で、本を手にして、興味深い半生だと述べた。〕 1932年アメリカに渡り、ハーバード大学で日本語、日本史、日本文学の講座を担当する。ハーバードにおける門下生にはエドウィン・ライシャワー〔倉田保雄の『夏目漱石とジャパノロジー伝説』はライシャワーに冠されている「日本学の父」という称号をエリセーエフに帰そうとする試みである。〕やドナルド・キーンがいる。ただしキーンはエリセーエフの講義を無味乾燥と評し、「私はエリセーエフにも多くを負っていて、それは自分がしてはならないことの手本を彼が示してくれたからだった」と述べている〔ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』p.108(中央公論新社、2007年)〕。 一説には、日本とアメリカの間に太平洋戦争が勃発すると、東京神田古書店街周辺が爆撃の標的になるのを阻止することに尽力したといわれる。 子息のヴァジム(ワジム)・エリセーエフも日本学者。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セルゲイ・エリセーエフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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