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セルヒオ・ラモス・ガルシア(, 1986年3月30日 - )は、スペイン・セビリア出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード所属。スペイン代表。ポジションはディフェンダー。 == 来歴 == === クラブ === セビリア、カマスにて3人兄妹の次男として生まれる。幼少期には友人と共に近所の広場で木や石をゴールに見立ててサッカーをしていた。6歳でカマスのチームでスタートし、8歳で提携していたセビージャFCに入団した〔インタビュー:レアル・ラモス realmadrid.jp、2011年2月25日〕。 セビージャの下部組織ではヘスス・ナバスやアントニオ・プエルタらと一緒にプレーした。ベルント・シュスターに風貌が似ていたことから、少年時代には「シュスター」というあだ名があった。2004年2月、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でトップチームデビューを果たし、その年の9月には初得点を記録した。2004-05シーズンには、ドン・バロン・アワードのブレイクスルー選手に選ばれた。セビージャのトップチームに在籍したのはわずか2シーズンのみで、2005年夏にはスペインの10代選手としては最高記録となる2700万ユーロ〔レアル・マドリードの補強資金総額が10億ユーロを突破 Total Football、2010年8月10日〕の移籍金でレアル・マドリードに移籍した。 レアル・マドリードではフェルナンド・イエロの背番号4を譲り受けた。2005年12月6日のUEFAチャンピオンズリーグ・オリンピアコスFC戦で移籍後初得点を決めた。2005-06シーズンは主にセンターバックとしてプレーし、チーム事情によっては守備的ミッドフィールダーとして起用されることもあった。2006-07シーズンはファビオ・カンナヴァーロが加入したが、ポジションは守った2007年夏にセンターバックのクリストフ・メッツェルダーとペペが加入した後はミチェル・サルガドに変わって右サイドバックとして起用された。 2008年5月4日、CAオサスナ戦の試合終了間際にゴンサロ・イグアインのゴールをアシストし、31度目のリーグタイトル獲得を決めた。レバンテUDとのリーグ最終戦では2得点を決め、リーグ戦の得点を5とした。2008年にはFIFAとUEFAの両方の年間ベストイレブンに選ばれ、2007-08シーズンにはFIFProのベストイレブンに選ばれた。バロンドール投票では21位にランクインした〔2008年バロンドール全順位 livedoorスポーツ、2008年12月3日〕。2008-09シーズンのスーペルコパ・デ・エスパーニャセカンドレグでは2試合合計で同点となる貴重な得点を決め、タイトル獲得に貢献した。 2009-10シーズンはクラブの第4キャプテンを務め、ペペの負傷によりシーズンの大半をセンターバックとしてプレーした〔CLを見据えるセルヒオ・ラモス レアル・マドリード日本語公式サイト、2010年2月16日〕 〔。2010年2月21日のビジャレアルCF戦でレアル・マドリード移籍後公式戦200試合出場・リーグ戦150試合出場を達成した。 2010-11シーズンは、ラウル・ゴンサレス、グティの退団により、副キャプテンを任されたが、当初からあまり調子が上がらず、2010年11月20日のアスレティック・ビルバオ戦で、クリスティアーノ・ロナウドからPKを譲ってもらいシーズン初得点を決めた。11月23日のUEFAチャンピオンズリーググループリーグアヤックス戦では、4-0でリードした後半終了間際にシャビ・アロンソが遅延行為で退場した後、ラモスも同じようにして退場となった〔Masterful Madrid take top spot in style uefa.com、2010年11月23日〕。この行為に関してUEFAの調査が入り〔【サッカー】故意に退場処分? UEFAがR・マドリー2選手調査へ searchina news、2010年11月24日〕、2万ユーロの罰金が科せられた〔モウリーニョ監督に処分 1試合資格停止と罰金 47news.jp、2010年12月1日〕。 2010年11月29日、カンプ・ノウで行われたFCバルセロナとのエル・クラシコでは、リオネル・メッシに対して激しいタックルを行い、その後抗議に来たカルレス・プジョルを突き飛ばして主審からレッドカードを受けた。レアル・マドリードに移籍して以来5度目の退場処分であり、175試合にしてイエロの持つ退場数のクラブ記録と並んでしまった〔フェルナンド・イエロは439試合で5度の退場処分を受けた。〕。 12月15日のレアル・サラゴサ戦にラモスは右足靭帯を負傷して出場することが出来なかったが、右サイドバックでアルバロ・アルベロアを起用したジョゼ・モウリーニョが「アルベロアはレギュラーとなる予定だった。彼は右サイドバックのポジションを勝ち取っていたんだ。この決定にセルヒオの負傷は関係していない」と発言〔モウリーニョ:「アルベロアはポジションを勝ち取った」 Goal.com、2010年12月13日〕。モウリーニョとの確執がメディアで騒がれた〔S・ラモスを不快に思うモウリーニョ livedoor.com、2010年12月16日〕が、本人が会長と面談して監督批判をしていないと否定したほか、ツイッターにも「何かしらの亀裂が生じていると誰かが言ったとしても、それは嘘だ。偉大なグループ、偉大な団結がここにはある」と書いてチーム内不和を完全に否定した。 2011年4月20日のコパ・デル・レイ決勝ではセンターバックとして出場し、1-0で優勝した。その優勝パレードの最中、優勝カップをバスから落としてしまった〔優勝レアル、前代未聞の大失態、パレードで国王杯を落下→破壊 産経ニュース、2011年4月22日〕。 2011-12シーズンはリカルド・カルヴァーリョの負傷などもあって主にセンターバックとしてプレーし、チームの4シーズンぶりの優勝に貢献した。同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ準決勝バイエルン・ミュンヘン戦において、2試合合計3-3でのPK戦となった際に4人目のキッカーを務めた。しかし、1人目であったクリスティアーノ・ロナウド、2人目のカカと同じくPKに失敗し、レアル・マドリードは準決勝で姿を消した。 2013-14シーズンもリーガ・エスパニョーラでは4ゴールと相変わらずの得点力を示した。UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では、フースバル・アレナ・ミュンヘン〔UEFA主催試合では命名権名称であるアリアンツ・アレーナの名称は使用できない。〕で前半に立て続けに2得点を記録して勝利を大きく引き寄せ、アトレティコ・マドリードと対戦した決勝では、1点を追う後半のアディショナルタイム3分にルカ・モドリッチのコーナーキックにヘディングで合わせて同点。チームを敗戦の危機から救い、クラブのラ・デシマ(10度目のチャンピオンズリーグ制覇)に貢献した。決勝では、ファンの選ぶ最優秀選手となった。 2014年のFIFAクラブワールドカップでは、守備面での貢献に加えクルス・アスル戦、サン・ロレンソ戦でセットプレーから先制点を奪い、得点王になると共に〔レアル・マドリードのガレス・ベイル、クルス・アスルのヘラルド・トラードも大会2得点を挙げて得点王となっている。〕ゴールデンボールを受賞した〔Ramos outshines the rest FIFA.com、2014年12月20日〕。 2015年夏にイケル・カシージャスがFCポルトへ移籍したことにより、2015-16シーズンからはキャプテンを務める。また移籍も噂されたが2015年8月17日にレアル・マドリードとの契約を2020年まで延長したと正式に発表した〔レアル、S・ラモスとの契約延長を正式発表…2020年までの新契約締結 soccerking 2015年8月17日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セルヒオ・ラモス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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