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セントジョンズの包囲戦は、1705年の冬、プラセンティア(プレザンス)総督のダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスが、ニューファンドランド島のセントジョンズ砦攻略を目論んで、失敗に終わった戦いである〔この記事の日付は、すべてグレゴリオ暦による〕。1705年の1月末から3月の始めにかけて、正規兵、民兵、そしてインディアン兵を率いたスーベルカスは、セントジョンズの町の大半を焼き払って、セントジョンズ砦を5週間包囲したが、効を奏さず、物資と弾薬が切れた後に包囲を解いた。 この包囲戦は、ピエール・ル・モイヌ・ディーベルヴィユが、はっきりした目的もないまま行った、アヴァロン半島侵攻作戦の再現ともいえる大規模な遠征であった。多くの過疎地にあるイングランド人集落が、スーベルカスの軍によって破壊され、これにイングランド系住民が報復した。英仏双方の漁業は、戦いの間中そのあおりを受け、最終的にフランスの漁業権の割譲で戦いは幕を閉じた。 ==包囲戦に至るまで== 1702年にアン女王戦争が始まるまで、英仏両国は何度もニューファンドランドの領有をめぐって争っていた。ウィリアム王戦争中の1690年代に行われたフランスの襲撃で、ニューファンドランドの主要な港であるセントジョンズを含め、イングランドの集落の殆どが壊滅状態となった〔Prowse, p. 229〕 。元々ニューファンドランドは、イングランドが1583年に植民地化し、ここを非定住の漁業基地としていた。一方でフランスは、プラセンティアに入植地を築き、イングランド以上に漁船をこの地へと送っていた〔木村、39-40頁〕。 1702年、イングランドの大尉ジョン・リークは、ニューファンドランドのフランス人入植地を襲撃したが、プレザンスへの襲撃を避けた。港にフランスの軍艦が寄港していたためである。1703年、新総督としてプラセンティアに赴いたダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスは、150人規模で、設備もろくになかった駐屯隊の指揮を執った。フェリーランドの襲撃の後、スーベルカスはイングランドの計画的な襲撃を耳にして、彼らの攻撃に備えた。しかし襲撃はなかった。本国で、臆病者として広く知られるイングランドの提督ジョン・グレイドンが、自分たちに大きな利があるにもかかわらず、襲撃を止めてしまったからである。グレイドンはこの後軍法会議にかけられ、指揮を執っていたすべての任務を罷免させられた。その任務の中には、失敗に終わったグアダルーペの戦いも含まれていた〔Prowse, p. 237〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セントジョンズの包囲戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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