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セントジョン川方面作戦(セントジョンがわほうめんさくせん、St. John River Campaign)は、フレンチ・インディアン戦争中の軍事作戦である。1759年の2月、イギリス軍の大佐ロバート・モンクトンが、1,150人の部隊を率いて、サンタンヌ・ペ・バ(現在のニューブランズウィック州フレデリクトン)に着くまでの間、セントジョン川に沿ったアカディアの集落を破壊したもので〔John Grenier. ''The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia, 1710-1760.'' Oklahoma University Press.pp. 199-200. (同書405頁では、ジョン・ファラハーにより、モンクトンが2,000人部隊を率いていたことが指摘されている)〕 、この時モンクトンには、ジョセフ・ゴアハム、ベノニ・ダンクス、モーゼス・ヘイゼン、そしてジョージ・スコットに率いられたアメリカン・レンジャーズが同行していた〔 。また海軍の指揮官シルバヌス・コッブもアカディア人追放に協力していた。〔COBB, SILVANUS - Dictionary of Canadian Biography Online 〕 ある歴史家は、1758年の夏の終わり、追放されたアカディア人の数が非常に増えたと指摘している。サンジャン島方面作戦、セントローレンス湾方面作戦、ケープ・サーブル島の作戦やプティクーディアク川方面作戦と並行して、イギリス軍がセントジョン川をも標的としたためである〔Grenier, 198-200〕。 ==歴史的背景== 1710年の、イギリス軍のアカディア征服から45年間、アカディア人は、イギリスへの絶対的忠誠を強いる誓文の署名を拒み続け、民兵として様々な対イギリス作戦に参加し、フランスの砦であるルイブールやボーセジュールへの補給線維持に努めた〔John Grenier, Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710-1760. Oklahoma University Press. 2008〕。フレンチ・インディアン戦争中、イギリス軍は、アカディア人たちの見せかけの武力を打ち砕き、彼らを追放することによって、ルイブール砦への補給線を中断した〔Stephen E. Patterson. "Indian-White Relations in Nova Scotia, 1749-61: A Study in Political Interaction." Buckner, P, Campbell, G. and Frank, D. (eds). The Acadiensis Reader Vol 1: Atlantic Canada Before Confederation. 1998. pp.105-106.〕〔Stephen Patterson, Colonial Wars and Aboriginal Peoples, p. 144.〕。 セントジョン川の渓谷にアカディア人が住むようになったのは、17世紀の始めだった〔Plank, p. 164〕。1710年のアカディア征服の後、アカディア人たちは(イギリス領になった)ノバスコシア半島から、フランス領のセントジョン川に移住した。この移住した人々が、イギリスに対して最も強く抵抗したと考えられている〔Georrery Plank. An Unsettled Conquest. University of Pennsylvania. 2001. p. 100.〕。1748年の時点では、セントジョン川流域には、フランス語を話す12世帯が住んでいるだけだった〔。それから10年間で、セントジョン川沿いに住むアカディア人が急速に増え、のアカディア人集落の中心となり〔、サンタンヌを中心にアカディア人家族約100世帯が住んでいた〔Plank, p. 61〕。その多くは、早い時期の追放作戦、たとえばサンジャン島作戦などで逃げ出した人々だった〔Maxwell, p. 25.]〕。ここには約1,000人のマリシート族もいた〔Patterson, p. 126〕。 アカディア人追放の第一波(ファンディ湾作戦)は1755年に始まった。追放作戦の間中、セントジョン川の渓谷はアカディアとアルゴンキン語族のイギリスへの対抗勢力の拠点となり、その指揮官は、フランス民兵の士官であるシャルル・デシャン・ド・ボワシェール・エ・ド・ラフェトであった〔Plank, p. 150〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セントジョン川方面作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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