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センナケリブ(Sennacherib、在位:紀元前705年 - 681年)は新アッシリア王国時代に、その絶頂期を統治した王の一人である。センナケリブと言う読みは旧約聖書のヘブライ語記述をさらにギリシア語訳したものに由来する慣用表記であり、もともとのアッカド語における表記はシン・アヘ・エリバ(Sin ahhe eriba)である。 == 来歴 == 彼は前王サルゴン2世の息子として生まれた。恐らく彼が生まれる前に複数の兄がいたと思われるが、彼らはセンナケリブ誕生前に夭折したと考えられる。これは彼の名前シン・アヘ・エリバが「シン神が兄弟達の代わりを与えて下さった」という意味に解される所から推察されている。このため正当な王位継承者として父サルゴン2世を補佐する事となった。 紀元前705年にサルゴン2世が死去したため、翌年センナケリブがアッシリア王位についた。彼は即位すると父が建設していた新都ドゥル・シャルキン(現コルサバド遺跡)を捨て、ニネヴェを首都とした。 センナケリブの治世における最大の問題はバビロニアの離反であった。彼は数多くの遠征を行っているが、その多くがバビロニアに対する物である。問題はかつてのバビロニア王メロダク・バルアダン2世の動向であった。サルゴン2世の時代にアッシリアに敗北し行方不明となっていたメロダク・バルアダン2世が再びバビロンに現れ、エラム()の支援の下でバビロニア王に返り咲いたのである(紀元前703年)。そしてアッシリアからの独立を図ったため、センナケリブは直ちに軍事行動に出てメロダク・バルアダン2世を破りバビロニアに傀儡王を即位させてこれを支配した。 次いで紀元前701年、西方遠征を行った。ユダ王国のラキシュを包囲し(:en:Siege of Lachish)、王都エルサレムを包囲した(:en:Assyrian Siege of Jerusalem)。この時の遠征ではエルサレムを陥落させる事無く撤退している。旧約聖書によればヤハウェの使いによって討たれたため、とされるがアッシリア側の記録(Sennacherib's Stele)には撤退の理由は残されていない。 紀元前699年、バビロニアの傀儡王ベール・イブニは結局アッシリアに反乱を起こした。センナケリブは直ちにこれを鎮圧し、バビロニア王位に自分の長男アッシュール・ナディン・シュミを付け現地統治を担当させた。しかし紀元前694年にエラムの支援を受けて発生したバビロニアの反乱によってアッシュール・ナディン・シュミはエラムに捕らえられ消息不明となった。 後継者と目されていた彼の喪失は後の王位継承問題の遠因となった。またこの時の反乱の結果紀元前693年、がバビロニア王となって離反したため、センナケリブは遠征を行ってこれを鎮圧した。しかし反乱は続き紀元前692年にムシェズィプ・マルドゥクがエラムの支援の下で反乱を起こし(:en:Battle of Diyala River)、バビロニアはまたもアッシリアから離反した。紀元前691年には()〔Taylor inscription〕で各国と同盟を結んだムシェズィプ・マルドゥク率いるバビロニア軍にアッシリア軍が敗北し、一時的にアッシリアの勢力がバビロニアから後退するに至った。(記録では両者が勝利を宣言しているが、現在ではバビロニアの勝利と考えられている。) センナケリブは態勢を立て直し紀元前689年に再びバビロニアに遠征を行い、バビロンを陥落させた(:en:Siege of Babylon)。(以後バビロニアはアッシリア王の直接統治下に置かれる。)相次ぐ反乱に対する予防としてか、或いは息子アッシュール・ナディン・シュミの仇討ちか、この時センナケリブはバビロンの主神マルドゥクの神像を持ち去り、バビロン市の大部分を破壊した上に運河の流路を変えてバビロンにユーフラテス川の水を流し込んだ。 前述した如く、長男であったアッシュール・ナディン・シュミが消息不明になっていたため、センナケリブは新たに末子のエサルハドンを後継者に指名していた。この決定にはエサルハドンの母である王妃ナキア(ザクトゥ)が深く関わっていたといわれる。センナケリブの他の息子達は激しく反発し、紀元前681年にセンナケリブは息子達によって暗殺された。更にエサルハドンも一時首都脱出を余儀なくされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「センナケリブ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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