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セーナ朝()は、11世紀末から13世紀半ばにかけてベンガル地方に存在していた王朝。首都は(ナディア、:en:Nabadwip)〔ナヴァドヴィーパ以外に、東ベンガルのヴィクラマプラ、北ベンガルのラクシュマナーヴァティー、ラーダーのヴィジャヤプラといった、複数の首都を持っていたとする意見も存在する。(三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、37頁)〕。 == 歴史 == セーナ朝の王族は南方のデカン高原に起源を持つ。11世紀にカルナータカ地方より傭兵あるいは侵入者としてベンガル地方に移住し、この地に定住した〔堀口『バングラデシュの歴史 二千年の歩みと明日への模索』、51頁〕。 彼らはラーダー地方(現在のバルドマン一帯)を拠点とし〔三田「南アジアにおける中世的世界の形成」『南アジア史 2』、36頁〕、実質的な建国者と評される〔山崎「セーナ朝」『南アジアを知る事典』収録〕3代目のの治世にパーラ朝の衰退に伴って勢力を拡大する。ヴィジャヤ・セーナは東ガンガ朝と同盟し、東ベンガル(ヴァンガ地方)のヴァルマン朝を滅ぼし、ミティラー(北ビハール)の王ナーニヤデーヴァを破って、国をベンガルの強国に成長させた。 ヴィジャヤ・セーナの子であるは1162年頃(あるいは父ヴィジャヤ・セーナの存命中〔)にパーラ朝の最後の王を破り、王都(北ベンガル地方)を併合する。 5代目の王は周辺国のガウル、カンプラ、カリンガ、カシとの戦争に勝利し、ベナレシを支配するの侵入を退ける。ラクシュマナの勝利を称える碑文がベナレス、ガヤー(:en:Gaya, India)、アラーハーバード(:en:Allahabad)などに建てられ、パーラ朝と同じく使節を中国に派遣し、海洋交易が促進された〔S.チャンドラ『中世インドの歴史』、37頁〕。しかし、12世紀末より王朝の衰退が始まり、1196年にはフグリー河口部のドンマナパーラが独立状態にあった。1202年に北西インドのイスラム王朝であるゴール朝の軍人ムハンマド・バフティヤール・ハルジーの攻撃によって西北ベンガルを喪失し〔S.チャンドラによれば、ナヴァドヴィーパ(ナディア)の陥落した年は1204年である。(S.チャンドラ『中世インドの歴史』、70頁)〕)、ラクシュマナはショナルガオンを中心とする南東ベンガルに拠点を移した。 以降セーナ朝は南東ベンガルを領有する小勢力として存続するが、残存勢力も13世紀半ばに滅亡した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セーナ朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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