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ゼッターランドヨーコ : ミニ英和和英辞書
ゼッターランドヨーコ[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ゼッターランドヨーコ ( リダイレクト:ヨーコ・ゼッターランド ) : ウィキペディア日本語版
ヨーコ・ゼッターランド[らん]

ヨーコ・ゼッターランド(Yoko Karin Zetterlund、日本名・堀江陽子(ほりえ ようこ)、1969年3月24日 - )はアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ市出身のスポーツコメンテーター・元バレーボールアメリカ代表選手。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科→鹿屋体育大学大学院体育学研究科修士課程修了。身長179cm。血液型はB型。
日本体育協会理事、日本バスケットボールリーグ(JBL)理事、(社)日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事、有限会社オフィスブロンズ取締役社長。2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事〔評議員会を開催 組織委員会新理事を選任 一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会〕。
== 来歴 ==
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで生まれる。1975年6歳の時、母親の方子とともに日本に移住。文京区立第十中学校に入学、部活動として本格的にバレーボールを始める。1983年全日本中学選手権で優勝、ベスト6を獲得。
高校は母親がヘッドコーチを務める中村高校に入学。全東京メンバーとしては、国体優勝、中村高校では春高バレーインターハイで3位入賞を果たし、全日本ジュニアメンバーとして、アジアジュニア選手権での優勝を経験した。
高校卒業時には、複数の強豪実業団チームが獲得に動き一躍脚光をあびるが、1987年早稲田大学人間科学部スポーツ科学科へ入学した。女子バレー部に入部した彼女は、当時関東大学リーグ6部最下位にあったチームを2部優勝まで導く。しかし当時バレー界では、進路至上主義〔トッププレイヤーになる為には、高校卒業と同時に実業団入りするのが一般的であり(三屋裕子佐藤伊知子のように大学経由の著名選手も存在はする)、バレーボールが弱いチームへ入ることは意味がないと言われていた。〕が非常に強く、卒業後の実業団バレー選手への道は閉ざされてしまう。当初全日本代表でオリンピックを目指していたヨーコは、出生地であるアメリカ国籍を選択する。
※注※《『国籍法』における『取得』と『選択』の相違について》 
ヨーコは「生地主義」をとるアメリカ生まれのため、アメリカ国籍で6歳の時に日本に母親と移住。
当時、日本の国籍法では「父親が日本人であれば子は日本国籍を有することができる」と定められており
母親が日本人であるヨーコは日本国籍を取得することができなかった。
その後、国籍法の改正により「両親のいづれかが日本人」であれば日本国籍を取得することが可能となり
ヨーコが高校2年時に日本国籍を取得。
日本では22歳までにいづれかの国籍を「選択」することと定められていたため、22歳でアメリカ国籍を選択。同時に日本国籍を離脱した。
現在はアメリカ国籍のみを保有。
大学卒業直前の1991年2月に単身渡米し、アメリカナショナルチームトライアウトを受験し合格。大学卒業後はフジテレビに入社〔フジテレビには2年間籍を残していた。〕するが4月に再渡米し、ナショナルチームでの活動を本格的に始動。1992年バルセロナオリンピックに出場し銅メダル獲得。続く1996年アトランタオリンピックにも出場し〔同大会では1次リーグで日本とも対戦し、セッターとして出場してアメリカの逆転勝利に貢献した。〕、アメリカナショナルチームで7年間活躍した。
同年、実業団チームの東芝シーガルズへ入団。翌1997年にダイエー・オレンジアタッカーズとプロ契約しVリーグでプレー。 休部予定であったダイエーの3年ぶり2度目の優勝に大きく貢献し、ベスト6を獲得した。
1998年日本バレーボール界初のプロチームとなった オレンジアタッカーズでプレーし、1999年の皇后杯黒鷲旗(全日本選手権大会)で2連覇。これらの大会でもベスト6を受賞した。1999年5月、現役を引退。
引退後はスポーツコメンテーターとして、テレビ、ラジオ、雑誌をはじめ、講演、解説、バレー教室、エッセー執筆などで活動。
2009年10月より、鹿屋体育大学大学院体育学研究科に入学。同大学の東京サテライトキャンパスに2年間通学し、2011年9月修士課程修了。
2007年3月 - 2011年3月日本バレーボール協会理事、2007年8月 - 2012年3月日本バスケットボールリーグ(JBL)理事、2010年7月 - 2014年1月(社)日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事を務めた。
2012年5月、小中学生を対象に「ヨーコ・ゼッターランドバレーボールクラブ」を開設した〔月刊バレーボール 2012年6月号 129ページ〕。
2013年1月、嘉悦大学女子バレーボール部の監督に就任することが発表された〔
嘉悦大監督にヨーコ・ゼッターランドさん 2013年1月8日閲覧〕。
副業として、ストレッチ枕の開発を行う。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨーコ・ゼッターランド」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yoko Zetterlund 」があります。




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