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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ゼノ・ゼブロフスキー(ゼノン・ジェブロフスキ、Zenon Żebrowski、1891年 - 1982年4月24日)は、ポーランド出身のカトリック教会の修道士。「アリの町の神父」として知られた。長崎市への原子爆弾投下で自らも被災(被爆)したが、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れた。日本人のイメージから「ゼノ神父」と呼ばれることがあるが、司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士である。 == 生涯 == 1890年、ドイツ国境付近の村でシュラフタ(ポーランド貴族)の父ヨーゼフ、母アンナとの間に四男として生まれた。その後、第一次世界大戦のおりに軍隊に志願する。除隊後、職を転々としていたが、気まぐれで聞いた教会での説教に影響を受け、コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会。29歳の時だった。1930年4月24日、そこで出会ったマキシミリアノ・コルベ神父やヒラリウス修道士と共に宣教のために来日した。 来日後は長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「無原罪の聖母の騎士」の出版と普及に力を入れた。ゼノ修道士は全国各地に赴き、その教えを全国に広めた。コルベ神父が離日した後も、日本に残り活動を続けたが、1945年8月9日、長崎市で被爆した。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京・浅草のバタヤ街など全国各地で「蟻の街」支援活動を始めた。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれた。 献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られた。またポーランドからは1976年にポーランド人民功労勲章(現在のポーランド共和国功労勲章)第4等が授与された。1981年2月来日した教皇・ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問し、長年の活動に敬意を表した(このとき自らもポーランド出身である教皇は、ゼノにポーランド語で話しかけている)。1982年4月24日、永眠。 1957年から1961年までポーランド人民共和国駐日大使を務めたタデウシュ・ゼブロフスキはゼノの弟。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゼノ・ゼブロフスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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