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ゼルダ・セイヤー : ウィキペディア日本語版
ゼルダ・セイヤー[ちょうおん]

ゼルダ・セイヤー・フィッツジェラルド(Zelda Sayre Fitzgerald〔"Sayre" はfairで韻を踏む〕 1900年7月24日 - 1948年3月10日)は、アラバマ州モンゴメリー生まれの小説家であり、F・スコット・フィッツジェラルドの妻である。夫に「アメリカで最初のフラッパー」とあだ名された1920年代の象徴的存在で、彼の第一作「楽園のこちら側」(1920年)が成功後は夫婦ともに有名人となった。ニューヨーク市の新聞が揃ってジャズ・エイジ狂騒の20年代の申し子と書き立てた二人は、若く、人には裕福にみえ、美しかった。
すでに子どもの頃からゼルダの大胆な行動はモンゴメリーの話の的だった。高校を出てすぐに、とあるダンスパーティーでF・スコット・フィッツジェラルドと知り合い、慌ただしい求婚を受けた。しかし情熱を打ち明けたスコットは、ゼルダにとって他にもいる男の一人だった。喧嘩があり短くない期間の破局があったにも関わらず、二人は1920年に結婚し、それから数年を文字通りニューヨークのスターとして過ごした。1920年代後半になるとヨーロッパへ移り、単なる有名人からロスト・ジェネレーションの国籍離脱者(Expatriates 〔Expartriatesとしてのフィッツジェラルドについては、例えば以下のp.8も参照 〕)として名をはせる。スコットが「グレート・ギャツビー」とその他の短編小説で名声を手にし、ゼルダとともにアーネスト・ヘミングウェイのような人気作家と知り合いになる一方で、二人の結婚生活はもつれあう嫉妬と怨嗟、冷笑に満ちていた。スコットはゼルダとの関係を小説の材料に使い、彼女の日記から断片を拾い上げて作中のヒロインにあてはめた。芸術家としての自分自身を求めて、ゼルダは雑誌記事や短編小説を書き、さらに27歳のときにはバレリーナの道にとりつかれ、疲れ果てるまで練習に打ち込んだ。
嵐のような結婚生活を送るなか、夫のアルコール依存症と自身の情緒不安は悪化していき、ついに身体をこわしたゼルダは、予示されていたかのように1930年にシェパード・プラットのサナトリウムへ入院した。そして彼女は統合失調症と診断された。メリーランド州トゥーソンの病院にかかっている間に半自伝的な小説「ワルツは私と」が書かれ、1932年に出版された。スコットは二人の生活が題材に使われていると怒り狂ったが、1934年には「夜はやさし」で自分も同じ事をするのだった。二つの対照的な小説でゼルダとスコットの破綻した結婚生活が描かれることになった。
アメリカに戻ったスコットはハリウッド脚本家に挑戦し、ハリウッドスター専門の美人ゴシップコラムニストのシーラ・グレアムと関係を持つようになった。ゼルダは1936年にノースカロライナ州アッシュビルのハイランド精神病院に入り、スコットは1940年に死んだ。ゼルダと彼が最後に顔を会わせたのはその1年と半年前だった。彼女は余生を二作目の小説を書くことに費やしたが、ついに完成せず、絵を描くことのほうに熱中するようになる。1948年、入院していた病院が火事になりゼルダもそのまま死んだ。二人が亡くなってから間もなく、再びフィッツジェラルド夫妻に対する世間の関心が高まり始めた。彼らは本や映画などのテーマとして人気になるだけでなく研究者たちの注目も集め、ジャズ・エイジと狂騒の20年代の象徴として生きたゼルダ・フィッツジェラルドには死後に新たな顔が加わった。ベストセラーとなった1970年の伝記がゼルダを高圧的な夫の被害者として描いてから、彼女はフェミニストアイコンにもなったのである。1992年にはに加えられている。
== 生涯 ==

=== 家族と幼年時代 ===

ゼルダ・セイヤーはアラバマ州モンゴメリーに6人兄弟の末子として産まれた。母のミネルヴァ・バックナー・「ミニー」・マッケン(1860年11月23日 - 1958年1月13日)はその娘の名前をあまり知られていない二つの小説の登場人物からとった。ジェーン・ハワードの「Zelda: A Tale of the Massachusetts Colony」(1866年)とロバート・エドワード・フランクリンの「Zelda's Fortune」(1874年)である。どちらのゼルダもジプシーだった。甘やかされた子供であり母親には溺愛されたが、アラバマ州最高裁判所判事で州内でも指導的な立場にあった父親のアンソニー・ディキンソン・セイヤー(1858年 - 1930年)〔Anthony Dickinson Sayre (April 29, 1858 – November 17, 1931), 〕は厳格な人間で、娘にも他人行儀だった。一家の祖先はロングアイランドからの初期の移民で、内戦前にアラバマ州に移って来た、ゼルダが産まれる頃のセイヤー家は南部でも有名な一族だった。大叔父であるジョン・テイラー・モーガンは上院議員を6期務め、父方の祖父はモンゴメリーで新聞を発行していた。母方の祖父であるウィリス・ベンソン・マッケンもケンタッキー州から上院議員に選出されている。兄弟はアンソニー・ディキンスン・セイヤー・ジュニア(1894–1933)、マージョリー・セイヤー(マイナー・ウィリアムソン・ベンソン夫人 1886–1960)、ロザリンド・セイヤー(ニューマン・スミス夫人 1889-?) 、クロティルダ・セイヤー(ジョン・パーマー夫人 1891–1986)である。
子供の頃のゼルダ・セイヤーは人並み外れて快活だった。ダンスをし、バレエのレッスンを受け、外でもよく遊んだ。1914年からシドニー・ラニア高校に通い始める。利発な生徒ではあったが、授業には関心を持たなかった。積極的な社交的生活を送ったこの高校でもバレエの勉強は続いた。酒と煙草に手を出し、恋人と二人できりで時間を過ごすゼルダを、彼女のダンス・パフォーマンスに触れたある新聞記事が「男と水泳」のことしか頭にない人間、と引き合いに出したこともあった。彼女は注目を浴びることを自らの喜びにし、進んで慣習に逆らうかのように振る舞うようになる。そのためにならチャールストンを踊ることも、裸で泳いでいるという噂を広めるためにぴたりとした肌色の水着をつけることもいとわなかった。しかし父親の名声が盾となり社会からこぼれ落ちることはなかった。とはいえ当時南部の女性は優しくて人が良く、素直なものというのが相場で、つまり周囲の人間にとってセイヤーの奇行はショッキングであり、すぐに彼女は―幼少期からの友人で後のハリウッド女優であるタルラー・バンクヘッドとともに―モンゴメリーのゴシップの中心人物になった。ゼルダの精神風土は高校の卒業写真の下部に要約されている。
借りるだけなら誰でもできるのに全人生が仕事でなければいけないわけはある?
今日のことだけ考えて、明日のことを気にするのはやめましょう


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゼルダ・セイヤー」の詳細全文を読む




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