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ソニア・オサリバン(Sonia O'Sullivan、1969年11月28日 - )は、アイルランドの陸上競技選手。1990年代を代表する女子長距離ランナー。2000年シドニーオリンピックの銀メダリストである。 == 経歴 == ソニア・オサリバンは1990年のヨーロッパ選手権の3000mに出場、最初のメジャー大会で11位という結果を残す。その後、急速に力をつけていき、1991年には5000mの室内世界新記録。1992年には800mから5000mまでの6種目のアイルランド新記録を樹立した。 同年夏にはバルセロナオリンピックに出場。3000m決勝では、先頭集団に位置しながら、残り1周、バックストレッチでいったんリードしたものの、その後、3選手に追い抜かれ、惜しくも4位に終わった。1500mは、準決勝で11位に終わり決勝進出を逃している。このオリンピックの3000mでは、銀メダルを獲得したEUNのタチアナ・ドロフスキフが、翌年、薬物で陽性反応が出ていることから、非常に残念な順位であった。 1993年頃からオサリバンは女子中距離界で圧倒的な力を持ち始めた。同年夏に行われたシュトゥットガルトの世界選手権では、1500mと3000mに出場し、金メダル獲得が期待された。しかし、まず行われた3000mのレース、残り2周となったところから、中国の3選手が猛然とスパートし、オサリバンはついていけず8分33秒38の4位に終わった。後日行われた1500mでも、無名の中国の選手の驚異的なラストスパートの前に敗れ銀メダルに終わった。このとき戦った中国の選手たちは、この年秋に行われた中国の国内大会で、現在でも破られていない驚異的な世界新記録を連発。しかし、そのまま消えてしまった選手が多く、ドーピングの可能性が高いと見られている。オサリバンにとっては、前年に引き続き残念な結果であった。 1994年、オサリバンは、1500mから3000mまでの種目で世界ランクトップ、5000mでも世界2位のタイムを出すなど充実したシーズンを送った。7月8日に、5分25秒36の世界新記録を樹立。翌週には3000mで8分21秒64のヨーロッパ新記録、世界歴代5位を樹立。(上位4位は前年活躍した中国の選手たちである。)。その後も、1500m、1マイルで自己ベストを立て続けにマーク。ヨーロッパ選手権でも3000mで優勝候補と目される中、8分31秒84で初優勝を果たした。 1995年も、オサリバンは好調をキープ。前年同様、1500mから3000mまでの種目で世界ランクトップ、5000mでも2位という成績を残した。同年のイェーテボリの世界選手権では、1500mではなく5000mに出場する。この種目には、世界新記録を出したばかりのポルトガルのフェルナンダ・リベイロが出場していたが、オサリバンはリベイロに完勝。前回の世界選手権で獲得できなかった金メダルを獲得した。 オサリバンは、1996年のシーズンは前年ほどの圧倒的な力を見せていたわけではなかったが、3000mでは3年間続けている連勝も継続し、1500mでも2人しかいない3分台ランナーの1人であった。アトランタオリンピックではこの2種目にエントリーした。まず5000mの予選は余裕でクリアした。しかし、決勝では体調を崩し、レース序盤はよかったものの、途中から後退しはじめついに途中リタイアしてしまった。1500mのレースも体調が回復しないまま出場し、準決勝で敗退してしまった。 1997年は、前年よりさらに不調で、アテネの世界選手権では1500mで決勝8位、5000mでは予選7位で決勝にも進出できなかった。しかし、1998年はシーズン序盤から好調で、モロッコのマラケシュで行われた世界クロスカントリー選手権では、4kmと8kmの2種目に出場し、両種目優勝の快挙を達成。トラックレースでも好調をキープ。8月にハンガリーのブダペストで開催されたヨーロッパ選手権では、日程の都合上、1500mと5000mの両方にエントリーすることが難しい状態であった。そのため、5000mと10000mに出場を決める。10000mはこれまでトラックで走ったことがない距離であったが、先頭をマークするレース運びで、ラスト200mを28.1秒のスパートでまとめ、金メダルを獲得。4日後の5000mでも、ルーマニアのガブリエラ・サボーがペースを作る展開で進みながら、ラストはオサリバンのスパートが炸裂し、2冠達成となった。 1999年は出産のためレースを中断するが、出産後10日で練習を再開し、3ヵ月後にはハーフマラソンを1時間10分5秒で走るまで回復、冬の間からオーストラリアで、シーズンに入るとヨーロッパでレースを積みながらシドニーオリンピックを目指した。シドニーでは、まず5000mに出場し、予選で15分7秒91のシーズンベスト、予選トップで決勝進出を決める。そして、3日後の決勝では、サボーと激しい争いの末、銀メダルを獲得。3度目のオリンピックで初の表彰台に立った。また、14分41秒02のタイムはアイルランド新記録であった。さらに、10000mにも出場。レースは大変なハイペースとなり、オサリバンはこの種目でも30分53秒37のアイルランド新記録を出したものの6位に終わった。オリンピックの後、10月に初めてマラソンに挑戦(ダブリンマラソン)、2時間35分42秒で優勝している。 2001年に2人目の子供を出産。復帰後、2002年のヨーロッパ選手権では、5000m、10000mの2種目で銀メダルと活躍。しかし、2003年のシーズンは不調で、パリの世界選手権の5000mでは、決勝進出選手中最下位の15位に終わった。 2004年には、4度目のオリンピックとなるアテネオリンピックに出場した。しかし5000mでは、体調不良のため、決勝で14選手中最下位、金メダルのエチオピアのメセレト・デファーに周回遅れにされるという残念な結果に終わった。その後も競技を続け、2005年4月にはロンドンマラソンに出場。2時間29分01秒の自己ベストで8位に入る。しかし、その後故障し世界選手権への出場は見合わせた。 現在、オサリバンは、アイルランドとオーストラリアの国籍を保有している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソニア・オサリバン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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