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ソニア・ヘニー : ミニ英和和英辞書
ソニア・ヘニー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ソニア・ヘニー : ウィキペディア日本語版
ソニア・ヘニー[ちょうおん]

ソニア・ヘニーSonja Henie, 1912年4月8日 - 1969年10月12日)は、ノルウェーオスロ生まれの女性フィギュアスケート選手でのち女優。3度のオリンピック優勝(1928年、1932年、1936年)、世界フィギュアスケート選手権で10度の優勝(1927年-1936年)、ヨーロッパフィギュアスケート選手権6度の優勝(1931年-1936年)を果たした。1976年世界フィギュアスケート殿堂入り。ソーニャ・ヘニーとも。
== 経歴 ==
1912年、裕福な毛皮商人の家庭に生まれる。父親のヴィルヘルムは1894年の世界選手権自転車競技大会トラックレースで優勝した自転車選手でもあった。ノルウェーの子供たちがそうであるように幼い頃から5歳上の兄と共にスキーやスケートに親しみ、5歳で初めてスケートの大会で優勝した。父親は彼女の才能を信じ、著名なコーチに師事させ、そして11歳で学校を辞めさせて、スイスにスケート留学させた〔Henie og Hitler var venner Aftenbladet紙、2013年1月7日〕。1927年14歳で世界フィギュアスケート選手権を制覇し、1936年まで10連覇を達成した。
1928年15歳10ヶ月でサンモリッツオリンピック優勝。この冬季オリンピックのフィギュアスケートでの最年少優勝記録は、1998年にタラ・リピンスキーに更新されるまで続いた。
1931年から1936年までヨーロッパフィギュアスケート選手権6連覇。
1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックで優勝し3連覇を達成。冬季オリンピックにおける3連覇は、フィギュアスケート男子シングルのギリス・グラフストローム、同ペアのイリーナ・ロドニナ、ノルディック複合個人のウルリッヒ・ベーリンク、スピードスケート女子500メートルのボニー・ブレア、同女子5000メートルのクラウディア・ペヒシュタイン、リュージュ男子1人乗りのゲオルク・ハックル、そしてのソニア・ヘニーの7人だけである。
1936年に引退し、その後はハリウッドへ移住。英語が得意ではない彼女のために父親がアイスショーをプロデュースし、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人マリオン・デイヴィスに売り込むなど、派手に宣伝、ショーは大成功を収めた。そこで生まれたコネクションを生かして、20世紀フォックスとの契約にこぎつけた。アイスショーと映画の成功は彼女を『世界で最も裕福な女性の1人』とし、社交界の花とした。タイロン・パワーとの交際、破局を経て、1940年に当時NFLのブルックリン・ドジャースのオーナーで、その後ニューヨーク・ヤンキースのオーナーとなる富豪のダン・トッピングと結婚(1946年離婚)〔。
1946年、終戦直後のノルウェーにアメリカ軍に同行し一時帰国する。しかし1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックでのヒトラーとの写真やナチス式敬礼をした写真、初主演映画『銀盤の女王』(1936年)のドイツ公開プレミアにヨーゼフ・ゲッベルスらナチス幹部らを招待し、彼らとのパイプをドイツのノルウェー侵攻後にも維持していたことで〔– Feil å lenke Henie til nazismen ノルウェー放送協会、2012年4月8日〕ヘニーは生家の広大な敷地を他のノルウェーの富裕層のようにドイツ軍に接収されることを免れた〔。そして、ハリウッドで最も高額なギャラを受け取るスターの一人として、アメリカ軍のキャンペーンには参加しているにも関わらず、ナチスドイツとその傀儡政権であるクヴィスリング政権の圧政下にあって窮地に陥った故国に対して一切の援助を行わなかったばかりか、更に北米への亡命者への援助依頼を拒絶していたことが問題視され、多くの国民から「裏切者」、「ヴィドクン・クヴィスリングの仲間」と見なされていたヘニーは歓迎されることはなかった。ヘニーは「ナチ協力者」という批難に対し、「私はナチスが何かも何も知りませんでした。ナチス式敬礼はドイツでの礼儀と思って行っただけなのです。ナチスの幹部の方々は素晴らしい家庭人だと思っていました。そしてボルシェヴィキのような人たちが恐ろしい人たちで、彼らを恐ろしいとは思わなかったのです。」と弁解した〔。しかし、6年後のオスロオリンピックにも招待されることはなかった〔。
1948年にアメリカ市民権を取得。
1949年にイングランド人初のロングアイランド入植者の子孫で、ロングアイランド・ガーディナー島の所有者だったウィンスロップ・ガーディナーと再婚(1956年離婚)。ガーディナーは彼女のビジネスパートナーでもあった。1950年より、復興が進む欧州でのアイスショー・ツアーを行ったが、故国ノルウェーへのツアーを行うことはなかった。しかし関係者はノルウェーでも復興が進み、彼女への反感が薄らいでいる状況を察し、1953年8月、オスロで公演を行うこととなる。公演の日の前夜、彼女は恐怖で倒れこむほどだったが、会場の観衆は温かく彼女を迎えた〔。そして国王ホーコン7世から聖オーラヴ勲章第一級騎士を授与された(授与されることは1937年に決定していた)〔。
1956年、南米公演の失敗を機にショーから引退〔。同年、ノルウェーの海運業者ニルス・オンスターと再婚〔。
二人は美術コレクターでもあったことから、オスロ近郊に美術館と資料館を兼ねたヘニー・オンスター・アートセンターを建設し、国家に夫妻のコレクション及び5000万クローネを寄付した。1968年8月23日のオープンの日には国王のオーラヴ5世を招待した〔。しかし、その直後の王太子ハーラルソニア・ハーラルセンの結婚式への出席は辞退した。「ナチ協力者」のイメージがくすぶり続けているからだ、という憶測がなされた〔。
1969年10月12日、パリからオスロへの機中、白血病で死去。亡骸はヘニー・オンスター・アートセンターの丘の上に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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