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ソニー・キング(Sonny King、本名:Lawrence "Larry" Johnson、1945年 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ルイジアナ州ニューオーリンズ出身のアフリカ系アメリカ人。 第4代WWWF世界タッグ王者。リングネームは、プロボクシング元世界ヘビー級王者のソニー・リストンにあやかって付けられた〔。 == 来歴 == プロボクサーとして活動後、アーニー・ラッドとの親交を通してプロレスラーに転向。ザ・シークの牛耳っていたデトロイト地区でデビューし〔、ベビーフェイスの黒人選手としてボボ・ブラジルのパートナーにも起用された〔。1970年2月には日本プロレスに初来日、2月14日に東京の世田谷区体育館にてジャイアント馬場とシングルマッチで対戦している。 1971年よりWWWF(現・WWE)に参戦。翌1972年5月22日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてチーフ・ジェイ・ストロンボーと組み、キング・カーティス・イヤウケア&バロン・マイケル・シクルナからWWWF世界タッグ王座を奪取する。1カ月後の6月27日にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジに敗れて短命王者に終わったものの、WWE初の黒人チャンピオンとしてその名を残すこととなった。WWWFには1973年まで出場し、アーニー・ラッド、フレッド・ブラッシー、ジミー・バリアント、レイ・スティーブンス、ムーンドッグ・メインとも対戦した。 1974年からはNWAのミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングを主戦場に、ジョニー・バレンタイン、イワン・コロフ、スーパー・デストロイヤー、チャック・オコーナー、リック・フレアーらと対戦。バレンタインとは、反則裁定なしのノーDQマッチやボクシング・マッチなどでも抗争を展開した。その後はアラバマのガルフ・コースト地区に進出し、1977年3月11日にリップ・タイラーを破りNWAアラバマ・ヘビー級王座を獲得。同年8月には、スタン・ハンセン、ブラックジャック・マリガン、ロディ・パイパー、ザ・ハングマン、ペッツ・ワトレーらと共に新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に来日している〔。 1978年よりヒールに転向し、エディ・グラハムが主宰していたチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダにてロッキー・ジョンソンと黒人同士の抗争を開始。1979年2月にはキラー・カール・コックスからフロリダ版のNWAブラスナックル王座を奪取している。また、ラッド、イヤウケア、オックス・ベーカー、パク・ソン、キラー・カーンなどヒール勢のマネージャーも担当し、フロリダのエースだったダスティ・ローデスとの流血戦を指揮した。 その後は1980年代初頭までテネシー州メンフィスのCWAに定着。フロリダ時代と同様にマネージャー兼任でジョー・ルダックやロン・バスをコントロールする一方、自身もジェリー・ローラーやジミー・バリアント、ポール・エラリング、ココ・ウェア、ビル・ダンディーらと抗争を展開。1979年8月はテリー "ザ・ハルク" ボールダーこと後のハルク・ホーガンとシングルマッチの連戦を行い〔、11月19日にはメンフィスのミッドサウス・コロシアムにてニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦した。一時ベビーフェイスに戻り、後にロックンロール・エクスプレスで活躍するリック・モートンとザ・スケアクロウズ(The Scarecrows)なるタッグチームを結成、ファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)やブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)とタイトルを争った〔。 CWAを離れた後は、古巣のミッドアトランティックやアラバマ、ジム・バーネットのジョージア・チャンピオンシップ・レスリング、ビル・ワットのMSWAなどで活動し、1980年代半ばに引退〔。リタイア後はサウス・フロリダにて中古車の部品販売業者に転じた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソニー・キング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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