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ソフィヤ・アレクセーエヴナ : ミニ英和和英辞書
ソフィヤ・アレクセーエヴナ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ソフィヤ・アレクセーエヴナ ( リダイレクト:ソフィア・アレクセーエヴナ ) : ウィキペディア日本語版
ソフィア・アレクセーエヴナ[ちょうおん]

ソフィア・アレクセーエヴナロシア語ラテン文字転写の例:', 1657年9月17日/グレゴリオ暦9月27日) - 1704年7月3日/グレゴリオ暦7月14日)はツァーリであるイヴァン5世とその共同統治者ピョートル1世の摂政(在任:1682年 - 1689年)。アレクセイ・ミハイロヴィチの4女、母はマリヤ・ミロスラフスカヤ。事実上の女性君主として君臨した。'';ラテン文字転写の例:', 1657年9月17日/グレゴリオ暦9月27日) - 1704年7月3日/グレゴリオ暦7月14日)はツァーリであるイヴァン5世とその共同統治者ピョートル1世の摂政(在任:1682年 - 1689年)。アレクセイ・ミハイロヴィチの4女、母はマリヤ・ミロスラフスカヤ。事実上の女性君主として君臨した。, 1657年9月17日/グレゴリオ暦9月27日) - 1704年7月3日/グレゴリオ暦7月14日)はツァーリであるイヴァン5世とその共同統治者ピョートル1世の摂政(在任:1682年 - 1689年)。アレクセイ・ミハイロヴィチの4女、母はマリヤ・ミロスラフスカヤ。事実上の女性君主として君臨した。
== 生涯 ==
1682年の同母弟フョードル3世の崩御に伴い、ナルイシキン派の擁する異母弟ピョートル1世がツァーリになると、ミロスラフスキー派の巻き返しを画策。ストレリツィ蜂起ruen)に乗じてナルイシキン派を失脚に追い込み、同母弟イヴァン5世をツァーリに立てた上で、ピョートル1世をその共同統治者とした。2人のツァーリの並立は異例で、東ローマ帝国の先例によって正当化された。
ソフィアは女性皇族の住むテレム宮殿を出て、女性の身で幼い2人の摂政の座についた。またフョードル3世時代の実力者で、西欧事情に明るいヴァシーリー・ゴリツィンen)公を主席顧問に任じた。銃兵隊については、要求する未払い金を支払う一方で、部隊の大半を辺境防衛に配属して力を弱め、素早く秩序を回復した。
内政では、人文主義的な傾向をもつ高等教育機関スラヴ・ギリシア・ラテン・アカデミーの設置、ユグノー亡命者の受け入れなどが行われた。またゴリツィンは首都モスクワの衛生対策や、架橋などのインフラ整備に力を注いだ。
外交では1686年神聖同盟に加盟して大トルコ戦争(ロシアとオスマン帝国との戦線の詳細については「露土戦争」を参照)に参戦、同年にポーランド恒久平和条約を結び、キエフなどロシアが占領している旧ポーランド領の保有権を認めさせ、これを賠償金支払で補償した。また1689年にはヨーロッパの国としては初めて中国のネルチンスク条約を結んだ。一方でオスマン帝国の従属国クリミア・ハン国に対する、ゴリツィンが率いた2度のクリミア遠征(1687年、1689年)は、いずれも輜重不足のために完全な失敗に終わった。この失策はソフィアの摂政政府の威信を失墜させ、人々は成長したピョートル1世に期待を抱き始めた。
ソフィアは摂政就任以後、ツァーリのみに許される「専制君主」の称号を用いたり、自分の肖像入りの貨幣を発行して自らの権威づけを図った。自ら皇帝になる意志があったとされる。しかし本来幼い弟達の代役に過ぎないソフィアの地位は、ピョートル1世の成長と共に不安定になる。
ナルイシキン派はピョートル1世が成人したことを示すべく、1689年の年明けには彼を結婚させた。同年8月には緊張が高まって、ピョートルは至聖三者聖セルギイ大修道院に避難した。しかし政府高官や軍の将校、聖職者の多くがピョートル支持に回り、ピョートルの勝利は確定した。ソフィアは9月、全顧問官をピョートル側に引き渡し、ノヴォデヴィチ女子修道院に入った。ゴリツィンもシベリアに流された。
9年後の1698年ストレリツィの蜂起en)が再発すると、ソフィアは何の証拠もなく反乱の首謀者と疑われた。見せしめのため修道院前で反乱者数名の処刑が行われ、ソフィアは修道女にさせられて、6年後の1704年に没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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