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第3代ソールズベリー侯爵、ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル (, 、1830年2月3日 - 1903年8月22日)は、イギリスの政治家、貴族。 ベンジャミン・ディズレーリ亡き後の保守党を指導し、ヴィクトリア朝後期からエドワード朝初期にかけて3度にわたって首相を務めた(第1次:1885年 - 1886年、第2次:1886年 - 1892年、第3次:1895年 - 1902年)。民主主義を嫌う貴族主義的な人物ながら漸進的な内政改革を行い、外交面では帝国主義政策を遂行して大英帝国の更なる拡張を果たした。彼の政策は多くがジョゼフ・チェンバレンとの連携の影響を受けていた。1902年に退任し、甥にあたるアーサー・バルフォアが首相・保守党党首の地位を継承した。 1865年まではソールズベリー侯爵家の庶子として卿(Lord)の儀礼称号で呼ばれ、侯爵家の嫡男となった1865年から爵位を継承する1868年まではクランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号で呼ばれた。本項でもそれに従うものとする。 == 概要 == を領する名門貴族ソールズベリー侯爵家の三男として誕生した(''→出生'')。イートン校、オックスフォード大学で学んだ後、1853年に保守党候補としてから出馬して庶民院議員に初当選した(''→庶民院議員に当選'')。1865年に兄の死でソールズベリー侯爵家の後継ぎの儀礼称号クランボーン子爵を継承した。 1866年に成立した保守党党首ダービー伯爵の第三次内閣にとして入閣したが、首相ダービー伯爵や保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが推し進めようとした第二次選挙法改正に反対して、すぐに辞任した(''→第三次ダービー伯爵内閣インド担当相'')。1868年にダービー伯爵が病気で引退し、ディズレーリが首相・保守党党首職を継ぐが、彼は1874年まで保守党内で反ディズレーリ派の立場を取り続けた(''→反ディズレーリ派として'')。 1868年に父の死でソールズベリー侯爵位を継承し、庶民院から貴族院へ移った。 1874年に成立した第二次ディズレーリ内閣にインド担当相として入閣することでディズレーリと和解。ランカシャー綿産業の利害を代表してインドの関税を廃止させ、またロシア帝国の南下政策をにらんでアフガニスタンに強硬姿勢をとるようインド総督に訓令した。ベンガル大飢饉に際してはベンガルからの穀物輸出制限の要請を拒否して批判を集めた(''→インド担当大臣として'')。バルカン半島をめぐって露土戦争が勃発した後、外相ダービー伯爵(元首相の息子)が対露開戦に反対して辞職するとその後任として外相に就任。各国との調整の実務にあたり、首相ディズレーリとともに参加したベルリン会議の成功に貢献した(''→外務大臣として'')。 ディズレーリ内閣は1880年の総選挙でウィリアム・グラッドストン率いる自由党に敗れて退陣し、ディズレーリはその翌年の1881年に死去した。以降保守党は1885年の政権奪還まで、貴族院保守党をソールズベリー侯爵、庶民院保守党をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導するという二党首体制をとったが、ノースコートの庶民院における権威が失墜したため、やがてソールズベリー侯爵が党全体の党首たる地位を固めていった(''→貴族院保守党の指導者として'')。 1885年に党首チャールズ・スチュワート・パーネルと連携して第二次グラッドストン内閣を倒閣することに成功し、代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発足させた。パーネルに配慮してアイルランド小作人に自作農への道を開くを制定したが、総選挙の敗北を経て、アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動いた結果、1886年1月には退陣に追い込まれた(''→第一次ソールズベリー侯爵内閣'')。 政権についたグラッドストンがアイルランド自治法案を議会に提出すると、アイルランド自治に反対して自由党を離党したジョゼフ・チェンバレンら自由統一党と連携してこれを否決に追い込み、その後行われたにも勝利し、1886年8月に第二次ソールズベリー侯爵内閣を発足させた(''→第二次ソールズベリー侯爵内閣'')。自由統一党の閣外協力を受けた内閣であり、チェンバレンの強い影響を受けて、地方自治法、労働者配分地法、小農地保有法などを制定する内政改革を行った(''→地方自治法、土地制度改革'')。外交ではドイツ帝国の勃興によるイギリスの相対的地位の低下を受けてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵との連携を重視する外交を行った。イタリア王国やオーストリア帝国とを締結してビスマルク体制の中に入っていった(''→ビスマルクとの連携と地中海協定'')。また列強諸国によるアフリカ分割が激しくなる中、海軍力増強と南アフリカ会社をはじめとする勅許会社の創設に力を注いだ(''→アフリカ分割'')。 1892年のに保守党が敗れた結果、第四次グラッドストン内閣に跡を譲ったが、海軍増強問題をめぐってグラッドストンは退陣し、その跡を受けて首相となったローズベリー伯爵もすぐに政権運営に行き詰ったため、1895年には保守党が政権奪回してを発足させることに成功した。ただちにを行って勝利し、保守党と自由統一党を合同させて統一党政権を誕生させた(''→政権奪還、第三次ソールズベリー侯爵内閣'')。 「社会帝国主義者」チェンバレンを植民地大臣に任じ、積極的な帝国主義政策を推進した。1898年にはマフディーの反乱以来、イギリス支配から離れていたスーダンに侵攻して同地をイギリス支配下に戻した。この際にフランスとの間にファショダ事件が発生するもフランスを恫喝して引き下がらせた(''→スーダン奪還とファショダ事件'')。1899年にはトランスヴァール共和国再併合を狙って第二次ボーア戦争を開始。ボーア軍のゲリラ戦に苦戦させられるも1902年に勝利をおさめた(''→第二次ボーア戦争'')。 アメリカ大陸においては急速に大国化・対外進出を進める新興国アメリカ合衆国との摩擦が増えたが、様々な問題で譲歩を行うことで対米開戦を回避した(''→アメリカとの対立と譲歩'')。 極東では日清戦争後の列強諸国による中国分割でイギリスの清半植民地体制(非公式帝国)が崩壊していくことへの対応に追われた。とりわけロシアが満洲・北中国一帯を支配下においたことを警戒し、重要港の租借地取得や門戸開放論で抑止を図った(''→中国分割'')。義和団の乱に乗じてロシアが満洲を軍事占領すると、新興国日本に注目し、1902年に日英同盟を締結してロシア帝国主義への対抗を図った(''→義和団の乱とロシアの満洲占領、日英同盟'')。 同年7月、病により退任。後任の首相・保守党党首には甥にあたるアーサー・バルフォアを就任させた。翌1903年に死去した(''→引退と死去'')。 その人物像は典型的な貴族主義的保守主義者だった。選挙権の拡大や民主主義に強く反対した。しかしノブレス・オブリージュはしっかり持っていたので漸進的政治改革を妨げることはなかった(''→人物'')。コナン・ドイルの推理小説シャーロック・ホームズシリーズの『第二の汚点』に登場する「英国首相ベリンジャー卿」や『海軍条約文書事件』に登場する「外務大臣ホールドハースト卿」はソールズベリー侯爵の変名だと言われている(''→シャーロック・ホームズとソールズベリー侯爵'')。 【↑目次へ移動する】 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury 」があります。 スポンサード リンク
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