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ゾクチェン : ウィキペディア日本語版
ゾクチェン

ゾクチェンは、主にチベット仏教ニンマ派(古派)と、チベット古来の宗教であるボン教に伝わる教えである。ゾクチェンという言葉はチベット語で「大いなる完成」を意味する「ゾクパ・チェンポ」の短縮形であり、人間を含むあらゆる生きもの(一切有情)の心性における本来の様態、またはあるがままで完成された姿のことを指している。
また、その姿を理解することにより、速やかに優れた覚醒の境地に至ることができるとされている。
漢訳は「大円満」あるいは「大究竟」、英語では Great Perfection などと訳される。アティヨーガとも呼ばれる。日本や欧米ではゾクチェンの修行者をゾクチェンパと呼称することもあるが、チベット仏教では一般的用法ではない。
==起源==
学術的には、9世紀頃までにニンマ派のゾクチェンの原型が成立していたと推察されている。その成立には中国の頓悟禅の影響があったのではないかと指摘されることもある〔『チベット密教』 pp.207-208、『増補 チベット密教』 pp.197-198〕が、それとは異なる見解をとる学者もいる〔早期には、インド学の平松敏雄が論文集「西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン『一切宗義』ニンマ派の章」(東洋文庫刊、1982年)の中で、ゾクチェンは禅から出ているとしていたが、後の論文で自身が誤りを認め、ゾクチェンは禅ではなく、インドの仏教によるとしている。〕。ゾクチェンの三部、セムデ(心部)とロンデ(界部)とメンガクデ(秘訣部)の内、特にセムデとロンデにおいてに通ずる面があると言われている〔『三万年の死の教え』 p.114〕が、修行法の面ではロンデととの関連性は見出し難く、また、メンガクデはより密教的で、発想面でもきわめて独特であるという〔『ゾクチェンの教え』 p.195〕。ニンマ派ではこれらの伝承方法は密教の三原則である「法身説法」の上に成り立つものであり、そのことはゾクチェンが法身普賢(クントゥサンポ)の教えとされる所以の一つでもある〔この項はノルラ・トゥルク・リンポチェ(1865-1936)の『諾那呼圖克圖開示録』(「ノルラ・トゥルク講義録」)上海版、p63による。ノルラ・トゥルク・リンポチェはダライラマ12世(1856-1875)によって、ボン教とニンマ派とタロン・カギュ派の三宗派の教学を兼修するボン教の寺院・ノルラ寺のトゥルク(転生者;活仏)として認定され、7歳の時に寺に入って出家生活を始めるが、担当の主任教授僧がゲルク派に傾倒していたために反発し、当時、ニンマ派のゾクチェンの大成就者として知られていたペヤ・ダライ・リンポチェについて本格的な学習を修め、ゾクチェンによって成就を得る。その後、当時のカルマパ15世(1871-1922)に直接ついてカルマ・カギュ派の教えとマハムドラーの奥義を学んで、ニンマ派とカルマ・カギュ派の教えの継承者となる。大成後、ダライラマ12世の政治顧問となり活躍するが、ダライラマ12世の死後、ダライラマ13世(1876-1933)とそのブレーンによる欧化政策に反対したために、獄中に捉えられ、三度暗殺されかかるも、三度目の毒殺の際に服毒によって仮死状態にあったところを、信徒らの計らいによって「死体」として処理され、助け出される。後に、当時の中国であった清朝の招きによって中国へ亡命し、中国大陸でチベット密教とゾクチェンの教えを広めることに尽力。中国大陸における弟子と信徒らの数は600万人から300万人と記録にはある。ゾン・サキャ派のコンカル寺のクンガー・ナムギャル・リンポチェやパンチェンラマ6世(1883~1937)、後には政策を転換したダライラマ13世らとも協力し、中国におけるチベット密教の復興に成功する。晩年はチベットに帰ることなく、中国の盧山にて没する。直系の弟子は、全伝を授かり師の最後を看取った出家の弟子・華藏金剛上師(禅密双修の中国僧)と、清朝の七省の将軍であった法賢金剛上師が有名である。また、戦後になって華藏金剛上師の直弟子である智敏金剛上師が盧山にノルラ・トゥルク・リンポチェの菩提を弔う「諾那寺」を建立し、法賢金剛上師の直弟子である李逸明金剛上師が同寺の敷地内にノルラ・トゥルク・リンポチェの舎利を祀る「大仏舎利塔」を建立し、現存する。資料としては、『金剛上師西康諾那呼圖克圖行状』・『諾那呼圖克圖応化史略』・『民國密宗年鑑』に事歴を見ることができ、ノルラ・トゥルク・リンポチェの伝えたゾクチェンについては、『大圓満』全二巻(圓烈金剛阿闍梨 編著)に詳しい。なお、中国語版ウィキペディアにも「諾那呼圖克圖」の項目が登録されている。〕〔法身説法などの「密教の三原則」については、『空海 弁顕密二教論』(金岡秀友著)や『弘法大師空海全集 第2巻』(筑摩書房)が参照しやすい。〕。「法身説法」の意味は一般にはなかなか理解が難しいが、両者の教義上に「法身説法」が有るか無いかということにより、単純ではあるがゾクチェンが禅とは異なるものと考えられ得る〔法身説法とは、文字通りに解釈すると仏の「三身」の一つである法身が説法することで、法身は密教では大日如来法身普賢(クントゥサンポ)等を指すが、一般の辞書では顕教も視野に入れて「仏教の真理そのものが説法する」と解釈されている。世界で初めて密教を宗派として独立させ、その教相を解説した弘法大師空海の著作『弁顕密二教論』には、この「法身説法」が詳しく説かれている。仏教に属するニンマ派のゾクチェンはこうした密教的見解が適用され禅宗との比較がなしうるものとなる。端的に言うとニンマ派のゾクチェンは法身仏である法身普賢の教えと伝授によるものなので「法身説法」と言うことができる。密教的な解釈は「三身論」を含め色々と複雑になり、チベット密教の側からの「法身説法」はまだ資料が少ないため、ここでは禅宗の側からの「法身説法」に関する資料の一部を取り上げる。禅宗といえば日本では臨済宗曹洞宗黄檗宗が有名であり、今では欧米人にも優れた師家(しけ:伝統の資格を持った禅の指導者)を輩出している。中でも曹洞宗の開祖・高祖道元禅師は、「古仏道元」(こぶつどうげん)と言われるほど宋代の純粋な禅の教えを日本に伝えたとされている。そして、この道元の教えを正確に記録し、その衣鉢(いはつ)を継いだ曹洞宗第二祖・孤雲懐奘禅師の著作の中に「三身」・「伝授」・『大日経』を扱った著作の『光明蔵三昧』がある。『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)入真言品住心品第一(大正大蔵経第十八巻一頁)』の婆伽梵(梵:Bhagavat)から金剛手菩薩に教えが授けられた点について、密教においては『大日経』の文中にある婆伽梵は表題にある毘盧遮那仏を指し、弘法大師空海の『付法伝』には法身仏とあり大日如来のことをいう。そして、この法身の大日如来が説法することは論を待たない。しかし、曹洞宗の伝統の解釈では「この経典も他の大乗経典の講成様式と同様に、婆伽梵、即ち世尊が、ここでは大日如来であるが、その上首である金剛手を対機として、その都度、秘密主と呼びかけて話された説法集で講成されている」(洒井得元『光明蔵三昧講話』より)とあり、他の大乗経典と同様に化身仏である世尊、すなわち大日如来を釈迦如来の異名としている。いわゆる禅宗においてこれを釈迦如来とする理由は、先の伝授に関連して、禅の教えにおいて仏教の真実の教えは「唯一単伝」(ゆいいつたんでん)とされ、過去七仏の燃燈仏から釈迦如来、インドでは釈迦如来から達磨大師まで、中国では達磨大師から禅宗の六祖まで、代々一人の弟子にのみ伝えられたとするからである。このように、禅宗では法身で説法する仏を認めず、密教では法身が説法しているとする点で、禅とゾクチェンとは異なる教えと世界観に立つと理解することができる。〕
〔「法身説法」と「二而不二」の関係については、真言宗京都大学而真會『密宗学報』第六十七号、p29~p36「大日經教主の分齋」(拙弦道人)に詳しい。〕。
また、禅宗には他の顕教の教えと同じように「経典や書物を理解する」〔
禅のスローガンの一つとして知られる「不立文字」(ふりゅうもんじ:文字の教えを立てない)と言うのは、道元が『正法眼蔵』の中で指摘するように禅宗の理解としては偏った見方である。歴史的に見ると、日本では禅宗や密教(真言宗天台宗)ほど経典や論書を学ばなければならない宗派は無い。例えば、黄檗宗では河口慧海の請来による『チベット大蔵経』や鉄眼和尚の『鉄眼版大蔵経』、真言宗と天台宗では『真言宗全書』・『続真言宗全書』・『天台宗全書』・『続天台宗全書』(これらは量だけで言えば『大蔵経』に匹敵する)等々である。無論、深い学問を要求する点ではチベット密教に於いても事情は変わらない。なお、臨済宗山田無文師によると、これらを学び尽くした上でその成果に執着することなく、「書を捨てて」独自の境地を切り開くのが禅の醍醐味ともいわれる。〕
ことによって覚りを得たとする『日本達磨宗』のような宗派もあったので、本来、文字によらない教えである密教に属するゾクチェンとは異なる教えであるといえる。
いわゆる、ゾクチェンにの影響があるとする主要な説には、次の3つがある。〔「西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン『一切宗義』ニンマ派の章」、pp.6-7。〕
#東洋学者のジュゼッペ・トゥッチGiusepp Tucci)の研究による「中国禅の摩訶衍(まかえん)禅師の影響がある」〔『Die Religionen Tibets und der Mongolei』、pp.94-106。〕とする説。
#インド学の山口瑞鳳の研究による摩訶衍禅師からランダルマの破仏までの間に「九世紀の初期に完成度の高い中国禅が中国から入り、影響を与えた」〔山口瑞鳳「チベット仏教」(『講座 東洋思想』5)、p254、p260、p270。〕とする説。
#日本の諸研究による「摩訶衍禅師より以前に、敦煌文献・他に見られるような禅の影響があった」〔「西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン『一切宗義』ニンマ派の章」、p7。〕とする説。
これらのうち、はじめの2説についてはいずれも有力とされるが、後述するようにサムイェー寺の建立を771年とし、摩訶衍禅師の「サムイェー寺の宗論」は792年のことであるから、いずれもニンマ派における歴史上のグル・パドマサンバヴァが説いたとされる、ニンマ・カマのゾクチェンにはそれらの説はあてはまらない。また、3番目の説については高度な密教の教えをインドで学び、そのゾクチェンの伝法が行なわれるまでの滞在期間の数年間(767-771)をサムイェー寺の建立と密教経典の翻訳に費やされ、チベット語が堪能であったかも不明なグル・パドマサンバヴァ個人には、敦煌文献に見られるような未成熟な禅思想〔敦煌文献にみる主要な資料である『二入四行論』等は、既に歴史上の達磨大師の説ではないことが判明しており、柳田聖山らの研究により中国禅に与えた影響も解明された。また、禅に関してはインド仏教敦煌仏教との歴史的な関係と、思想上の比較研究も各方面で既になされている。〕が影響を与えたとは考えにくい。ただし、テルマのゾクチェンは歴史の流れの中で無数の教えが発見されているので、今後は、その時期と説かれた地方や発見者についての詳細な研究が待たれる。
ゾクチェンの起源はボン教にあるという説もあり、この説を採る僧はボン教とニンマ派の双方に存在する〔『チベット密教』 p.208、『増補 チベット密教』 p.198〕。ニンマ派の伝承では、インド北西にあったと言われるで生まれたが人間界においてゾクチェンの教えを伝えた重要な祖師とされる。一方、ボン教の経部(カンギュル)に属する『シャンシュン・ニェンギュ』〔『シャンシュン・ニェンギュ』は8世紀には成立していたと言われている。それ以来、埋蔵経典(テルマ)として隠されることなくその系譜が続いているとされる(『智恵のエッセンス』 p.249 参照)。〕は、ゾクチェンを西チベットにあった古代シャンシュン王国より伝来した教えとしている。これについて、東チベット出身のゾクチェンのラマであり、長年イタリアでチベットの言語と文化の教育・研究に携わってきたは、ボン教文献を調査して両者の起源を考察し、ウディヤーナ国はシャンシュン王国の属国であったか、両国には何らかのつながりがあったのではないかという仮説を立てた〔『ゾクチェンの教え』 p.195〕〔ただしナムカイ・ノルブは、ゾクチェンそのものは仏教にもボン教にも属していないとしており(『虹と水晶』 pp.29-30)、ボン教がゾクチェンの起源だと示唆しているわけではない。〕。
ヴィパッサナー瞑想の実践家でもあるスリランカの比較宗教学者ナンディスヴァラの報告した、数万年の古さをもつオーストラリア・アボリジニーの精神伝統の中には、ゾクチェンで行われる青空を見つめる瞑想〔タイの上座部仏教でもよく見られる瞑想法。青空を見つめることによって四法印の「諸行無常」や、「空性」を悟るとされている。〕に類似した営みがみられる。このことから宗教人類学者の中沢新一は、『三万年の死の教え』の中で両者の共通性にふれ、アボリジニーの「ドリームタイム」の思想には仏教の空性の思想と相通じるものがあるとして、人類学的な見地から、ゾクチェンがニンマ派のゾクチェンの伝統を超えたきわめて古い人類の精神文化に連なっているのではないかと指摘した。さらに、ゾクチェンのテーマである心の本性(セムニー)の探求においては禅と密教の両者のアプローチが結合されていると論じ、禅と密教はともに中央アジアで発達した如来蔵思想〔如来蔵思想とは、主に「仏性」を認め、それを説く仏教思想を指している。密教を基盤として仏性を説くチベット仏教の全ての宗派のみならず、大乗仏教に属する中国仏教日本仏教韓国仏教の全域で見られる思想ともいえる。早期には『如来蔵経』や『宝性論』等に始まり、旧訳と呼ばれる真諦三蔵(パラ・マールタ:499-569)の訳になる『仏性論』や『大乗起信論』にも説かれ、後者の『大乗起信論』は中国仏教においては宗に限らずに、浄土宗や密教も初学者の教養とされたために数多くの注釈書が残されている。中国仏教の影響下にあった江戸時代までは日本でも盛んに読まれていたため、禅宗だけの特徴ではなく、日本でも真言宗天台宗の密教はもちろん、浄土宗浄土真宗時宗南都六宗日蓮宗等々、如来蔵思想と「仏性」は中心的テーマとなっている。〕を源流の一つとするものと仮定して、仏教そのものよりも素朴ではるかに古い中央アジアの精神伝統にゾクチェンの淵源を求めうる可能性を示唆した。
アボリジニーの瞑想との比較は今後の研究成果を待たねばならないが、付言すれば、ゾクチェンにおいては青空を見つめる瞑想の他に、空間を見つめる瞑想「アカーシャー」〔「空間」と漢訳、ニンマ派やカギュ派の「マハームドラー」が典拠。現在、ニンマ派の「マハームドラー」には、古タントラの「金剛頂経」や『大幻化網タントラ』に属するニンマ派の古伝のものと、カギュ派やサキャ派から伝わったナーローパ伝の「マハームドラー」とがある。〕、睡眠中の瞑想「ミラム」(夢見)〔「ミラム」は、「夢見」(ゆめみ)あるいは「夢示」(むじ)と漢訳。現在ではゾクチェンに付随する教えで、後期密教の六成就法の6つの代表的な瞑想法の一つであり、10世紀に始まるカギュ派の「ナーローの六法」や「ニグマの六法」、ドゥジョム・テルサルの「イェシェ・ツォギャルの六法」が典拠。「ナーローの六法」等はニンマ派に伝えられて久しいので、現在、これらを「ニンマの六法」と呼ぶこともあるが、カギュ派が本家でニンマ派だけではなく、サキャ派やゲルク派にも伝えられている。また、「イェシェ・ツォギャルの六法」は『大幻化網六成就法』を基とするドゥジョム・リンポチェのテルマであり、これらを「ニンマの六法」と呼ぶ人もいる。〕〔『秘伝!チベット密教奥義』(学習研究社)、p284。〕、暗闇の瞑想「ヤンティ」〔「ヤンティ」は、その内容から、「閉関成就法」(閉ざされた場所での一定期間の瞑想法)、あるいは「黒関成就法」(暗闇での瞑想法)と漢訳される。アヌヨーガに属する微細な意識を観察する瞑想法で、14世紀の「北のテルマ」の法流が典拠。数種類の系統のテキストがあり、現在はカギュ派やサキャ派にも伝えられていて、ニンマ派の「北のテルマ」の教主であるタクルン・ツェトゥル・リンポチェやトゥルシク・リンポチェ、ドゥク・カギュ派のドゥクチェン・リンポチェによる「ヤンティ」の伝授は世界的に知られている。〕〔『知恵の遥かな頂』(角川書店)、pp159-166。〕〔『A Losary of Jewels』(第12世 ドゥクチェン法王;Gylwang Drukpa 著)、「YANGTI RITUAL」、pp55-94。〕等々、さまざまな実践法があることが知られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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