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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ゾフィー・ドロテーア・ウルリーケ・アリーツェ・フォン・プロイセン(, 1870年6月14日 - 1932年1月13日)は、ギリシャ王コンスタンティノス1世の王妃。ギリシャ語名はソフィア()。 ドイツ皇太子フリードリヒ(のちの皇帝フリードリヒ3世)とその妃であるヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの長女)の娘として、ポツダムで生まれた。兄はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世。 1889年10月27日、王太子コンスタンティノスとアテネで結婚した。1913年5月に夫とともに戴冠した。2人は6子をもうけた。 *ゲオルギオス2世(1890年 - 1947年) - ルーマニア王女エリサベータと結婚。 *アレクサンドロス1世(1893年 - 1920年) - アスパシア・マノスと結婚。 *エレーニ(1896年 - 1982年) - ルーマニア王カロル2世妃。 *パウロス1世(1901年 - 1964年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公女フリーデリケと結婚。 *イリニ(1904年 - 1974年) - 第4代アオスタ公アイモーネ(短期間クロアチア王トミスラヴ2世となった)と結婚。 *エカテリニ(1913年 - 2007年) - リチャード・ブランドラムと結婚。 1916年、国王夫妻がタトイに滞在中、離宮に不審火が起こり、周囲の森林へも延焼した。ソフィアは末子エカテリニを抱いたまま2.4km余りを走って避難した。鎮火まで48時間かかったこの火事は、放火とみられている。 1917年6月、ソフィアは夫とギリシャを離れた(ドイツの介入で退位した)。2人はスイスで亡命生活を送るが、アレクサンドロスが猿に噛まれて破傷風で急逝したため、再び1920年に復位した。1922年、トルコとの戦争で敗北したのちコンスタンティノスは退位し、同年のうちに没した。 第一次世界大戦中、ソフィアは親ドイツ派であり、母と同じくイギリスびいきでもあった。 ソフィアは晩年に癌を患い、フランクフルトで没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソフィア (ギリシャ王妃)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sophia of Prussia 」があります。 スポンサード リンク
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