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タイガー・コンウェイ・ジュニア : ミニ英和和英辞書
タイガー・コンウェイ・ジュニア[じゅにあ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジュニア : [じゅにあ]
 【名詞】 1. junior 2. (n) junior

タイガー・コンウェイ・ジュニア : ウィキペディア日本語版
タイガー・コンウェイ・ジュニア[じゅにあ]

タイガー・コンウェイ・ジュニアTiger Conway Jr. 、本名:Plasee Dennis Conway Jr. 1953年 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテキサス州ヒューストン出身のアフリカ系アメリカ人
地元のテキサスをはじめとするNWA南部テリトリーを主戦場に、アフロヘアー黒人ベビーフェイスとして人気を集めた〔。"Texas Negro champion" として1960年代に活躍したタイガー・コンウェイ・シニア(Tiger Conway, Sr.)の息子である。
== 来歴 ==
アメリカンフットボールで活動後、父タイガー・コンウェイ・シニアのトレーニングを受けて1971年にデビューするが〔、体が小さかったため、当初はレフェリーをしていたともされる〔。テキサスを皮切りに、ジョージアセントラル・ステーツ地区などを転戦してキャリアを重ね、1974年よりミッドアトランティック地区に進出。
同地区では、フェイスターンしていたスウェード・ハンセンのパートナーに起用され、それまでハンセンとタッグを組んでいたリップ・ホークと、ホークの「甥」として売り出し中だったリック・フレアーとのタッグ抗争を展開した〔リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P69-70(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)〕。童顔でアイドル的な人気を得ていたことから、フレアーは自著において「コンウェイの人気にあやかれることを期待していた」などと当時を述懐している〔。同年12月6日にはポール・ジョーンズと組み、フレアー&ブルート・バーナードを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。同王座は1977年4月10日にも、ディノ・ブラボーをパートナーにジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツハリウッド・ブロンズから獲得したが、6月30日にフレアー&グレッグ・バレンタインに奪取されている〔。
1977年末よりテキサスに戻り、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。1978年12月17日、当時ベビーフェイスのポジションにいたブル・ラモスとの異色コンビで、マーク・ルーイン&キラー・カール・クラップを下しNWAテキサス・タッグ王座を獲得。その後も同王座には、1979年デビッド・フォン・エリック1980年ケリー・フォン・エリックと組んで戴冠している〔。ホセ・ロザリオともタッグを組み、ジノ・ヘルナンデス&エル・グラン・マルクスやミスター・ヒト&ミスター・サクラダなどのチームとNWAアメリカン・タッグ王座を争った。
1981年からはサンアントニオを本拠地とするサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングで活動。ワフー・マクダニエルマニー・フェルナンデススコット・ケーシー、そして同地区ではベビーフェイスとして活躍していたボビー・ダンカンブルーザー・ブロディとも共闘し、タンク・パットンタリー・ブランチャードバック・ロブレイキラー・ブルックスボビー・ジャガーズミスター・ポーゴなどと対戦。タンク・パットンとはブラスナックル王座を巡る抗争劇を繰り広げた。
ホームタウンのヒューストンに進出していたビル・ワットのMSWAにも参戦し、1983年3月12日にミスター・レスリング2号と組んでテッド・デビアス&マット・ボーンからミッドサウス・タッグ王座を奪取。1984年1985年にはWWFのテキサスでの興行にも出場、プレイボーイ・バディ・ローズムーンドッグ・スポットから勝利を収めている。1986年はサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングの後継団体であるテキサス・オールスター・レスリングにて、アイスマン・キング・パーソンズとの黒人コンビで活躍した。
1987年、古巣のミッドアトランティック地区にてシャスカ・ワトレーをパートナーに、サミー・デイヴィス・ジュニアなど往年の黒人エンターテイナーをイメージしたタッグチーム、ジャイブ・トーンズThe Jive Tones)を結成。ベビーフェイス的なギミックでありながらヒールのポジションで活動し、ブラッド・アームストロング&ティム・ホーナーのライトニング・エクスプレスと抗争。ジミー・バリアント&バグジー・マグローファビュラス・フリーバーズマイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)、ロード・ウォリアーズとも対戦した〔。1989年8月にはワトレーとのジャイブ・トーンズとして全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズII』に初来日。陽気なパフォーマンスと多彩な連携プレイで人気を集め〔、シリーズの外国人エース格だったアブドーラ・ザ・ブッチャーともトリオを組み、ジャイアント馬場ラッシャー木村ザ・グレート・カブキ組や天龍同盟との6人タッグマッチも行われた〔。
ジャイブ・トーンズ解散後、旧友テッド・デビアスの招きでWWFへのレギュラー参戦も計画されていたが実現には到らず〔、1990年代初頭はテキサスのインディー団体に単発出場していた〔。引退後は故郷のヒューストンにて外構施工会社を経営している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「タイガー・コンウェイ・ジュニア」の詳細全文を読む




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