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タイの文化はインド起源のバラモン文化を中心にし、それに仏教思想の影響を受けたものが多い。例えば彫刻はほとんどが仏像に限られ、建築も仏教寺院建築が主である一方、寺院の壁画にヒンドゥーの起源の説話が挿入されていたり、ヒンドゥー教の神々・生物が装飾として置かれていたりと美術面ではヒンドゥー的要素がむしろ顕著である。絵画も主なものは寺院の壁画である。古典劇及び古典文学もこれらの影響を強く受けており、伝統的タイ文学はほとんどが韻文である。 大きなムアン〔多数の村落がまとまった社会〕、領国〔多数のムアンが家系や交易、文化交流などによって緩やかにまとまった社会〕の中心部にある中心都市、王国の首都などにおいて、芸術様式が発展した。これを王室芸術と呼ぶ。一方、小さなムアンやムラでは伝統に従って芸術品を制作する考えが強かった。これを民衆芸術と呼ぶ。〔中央大学政策文化総合研究所監修、柿崎千代訳、世界の教科書シリーズ6『タイの歴史-タイ高校社会科教科書』明石書店 2004年1月 51ページ 〕 == 美術 == この国の美術は工芸を除き前期を通じて仏教美術だけであるが、その史的展開はタイ族支配の確立(1300年頃)以前と以後とでは異なる。東南アジア諸国と同じく、初期の青銅遺品の多くは南インド系またはグプタ系の渡来の小さな仏像であり、6世紀以後になってようやく土着民族による美術が現れる。先住民族のドヴァーラヴァティー王国の美術がそれで、ロッブリーを中心とした。8~9世紀にグプタのインド様式を取り、造形的にもすぐれた作風を示しており、透けた薄い衣をまとい、目と口の表現に民族的特色を持つ石造りの仏立像があらわれた。これより少し遅れて、シュリーヴィジャヤ王国の勢力下にあったマレー半島にジャワやスマトラの同時代の作りときわめて近い様式の美術が9~10世紀に行なわれた。チャイヤー及びリゴール(ナコーンシータンマラート)付近から尊像が発見されており、ことに青銅ローケーシュヴァラ(観音)像は高い造形理念になるタイの最も誇りうる遺品である。 以上の2美術に続くのが10~13世紀のクメール美術で、クメール族の発展と支配に関係し、範囲は広くタイ東部からチャオプラヤーなどを覆う。特徴的なプラン形式の塔を持つ寺院の遺構や遺跡は各地にあり、その建築の影響はタイ族支配の時代にも及ぶ。そして方々から見いだされるクメール様式の仏像ははなはだ多い。その民族的特徴の表現や顕著な量感ある造りはアンコールその他と同じで傑出したものも含むが、全体として技法的にはそれに及ばない。 最後にタイ族の美術は北端のチエンセーン地方を中心に12世紀頃から現れるビルマの影響による仏像彫刻を初めとし、13世紀以後のタイ族による全土の統一と平行してタイの国民美術が生まれる。しかしこの民族は東南アジアの内で芸術的天分が最も劣り、上記3美術を継ぎながら他の国のそれに並ぶものを創造するには至らなかった。建築は寺院を主とする。寺院または伽藍(がらん)をヴァットと呼び、その本堂は縦長のプランで正面と背面に切妻屋根をかけ、破風(はふ)を層に相重ね、豊富というより過多の木造装飾を施すのが普通で、ビルマの影響が最も顕著である。塔はインドのストゥーパに起源を持つプラ・チェーディと、クメール塔に習った砲弾形のプラ・プラントの2種があり、寺院内にはその他多種多様の建物が多くある。チエンマイにはインドのブッダガヤを模した建物があり、古都アユタヤは18世紀にビルマ軍に荒らされたが、それでも14~17世紀にわたる数多くの遺構遺跡を残しており、バンコクには王宮寺その他近世の壮麗な寺院が多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タイの文化」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Culture of Thailand 」があります。 スポンサード リンク
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