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タウケ タウケ(、1652年 - 1718年)は、カザフ・ハン国の第14代目の君主(ハン)である(在位:1680年? -1718年?)。13代目のハン・ジャンギルの子で、タウケはカザフ・ハン国の建国者ジャニベク・ハーンの来孫(5世孫)にあたる。法制度の整備と部族の統一によってカザフ草原に安定をもたらし、「偉大なタウケ」と讃えられた〔野田「タウケ・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』、313-314頁〕。 == 生涯 == タウケはヤシに居住し、近郊のキュルトベの丘で有力なビー(部族の指導者)と協議して国内を統治した。17世紀末からロシア帝国に頻繁に使者を派遣し、ロシアとの外交関係の構築に成功した〔。1687年、1691年にロシアに通商を求める使節を派遣し、1694年、1697年には貿易の継続を要請した〔佐口透『ロシアとアジア草原』(ユーラシア文化史選書, 吉川弘文館, 1966年)、77頁〕。 カザフ・ハン国はジュンガル(カルムィク)の侵入に苦しみ、1710年と1713年の侵入はカザフに深刻な被害をもたらした〔プジョル『カザフスタン』、56-57頁〕。1710年にクリルタイを招集し、キルギス人、カラカルパク人の協力も得てジュンガルへの反撃を試みた。翌1711年にカザフ連合軍はジュンガルに勝利する。 1718年春のアヤコズの戦いでは、ジュンガルに部族間の不和を利用され、敗北した〔。同年にタウケは没した後、カザフのジュズ(部族連合)は抗争を再開する〔。タウケの存命中にすでに小ジュズの一部がカイプ・ハンに従って独立していたが〔、タウケの死後はそれぞれのジュズが独自にハンを選出しカザフ草原に複数のハンが現れた〔野田『露清帝国とカザフ=ハン国』、46頁〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タウケ」の詳細全文を読む
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