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タタマガッチ沖の戦い(-おきのたたかい、英Naval Battle off Tatamagouche)または1745年6月15日の海戦は、ニューイングランドの3隻の軍艦と、1745年のルイブールの戦いの救援に向かっていた、フランスと、同盟関係のインディアンを乗せた護衛艦隊との海戦である。フランスと同盟インディアンの軍勢は、4隻からなる護衛艦隊と50隻のカヌーに1200人の兵士を乗せていた。フランスの指揮官はポール・マリン・ド・ラ・マルグで、一方イギリスの指揮官はデヴィッド・ドナヒュウだった。 この時のニューイングランド軍の戦況は好調で、ロワイヤル島の総督ルイ・デュポン・デュシャボンは、マリンの到着の前に、ニューイングランド軍がルイブールで戦闘を起こすと見ていた(当時、ルイブールのニューイングランド軍4200人に対してフランス軍は1800人しかいなかった)〔Beamish Murdoch. A History of Nova Scotia Vol. 2, p. 74〕〔Patterson,Frank. A History of Tatamagouch p.17 〕。しかしその翌日、ニューイングランド軍は「戦闘を起こす」どころか、ルイブールでフランスを叩きのめしてしまった〔Pote’s Journal p. 27〕。 ==歴史的背景== 1745年5月、ポール・マリン・ド・ラ・マルグ率いる200人部隊と100人のミクマク族がアナポリスロイヤルを包囲した。この包囲は3週間続いたが、その後マリンは、フランス軍のルイブール防衛の救援に派遣された〔Griffiths, E. From Migrant to Acadian. McGill-Queen's University Press. 2005. p. 351〕 。 アナポリスの包囲戦の間、フランスと同盟関係にあるミクマク族とマリシート族が、イギリス軍のウィリアム・ポートとモホーク族の猟兵を何人か捕囚した。ポートはアカディアとノバスコシアの獄中から手紙を書き送った、それは、の中でも、最も影響力のあるものだった。ポートは、アカディアの住民が、コベキドのフランス兵は、イギリス人の遺体は置き去りにしても、剥いだ皮〔英語版にはskinとあるが、北米植民地戦争では、元々インディアンの習慣だった敵の頭皮(scalp)を剥ぐ習慣が、ヨーロッパ系の兵の間にも浸透しており、この場合も頭皮ではないかとも考えられる。〕を持ち帰らなければならなかったと話していたことについて記している〔Pote's Journal, p. 34〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タタマガッチ沖の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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