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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
タタールの軛(タタールのくびき)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、、)は、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配をロシア側から表現した用語である。言い換えれば、現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である。 == 概要 == 13世紀、分領制の時代に入っていたルーシは東西からの二大勢力による厳しい挑戦を受けることとなった。この世紀の初頭には未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていたバルト海沿岸地域に、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)をはじめとするカトリック教徒のドイツ人が北方十字軍および東方殖民の活動を開始し、同じキリスト教徒ではあるが正教徒であったルーシの人びととの間に衝突が起こるようになった。ドイツ人の侵攻は、1240年と1242年の2度にわたってノヴゴロド公国の公子アレクサンドル・ネフスキーによって阻まれ、その東進はエストニアでとどまり、カトリックによる北ルーシ侵攻は失敗した。 その一方で、ヨーロッパ大陸でも最も東に位置し、常にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシは、1223年、すでにモンゴル帝国の最初の襲撃を受けていた(カルカ河畔の戦い)。これは、初代皇帝チンギス・ハーンの治世において、ホラズム遠征の一環としておこなわれたもので、このとき、モンゴル軍は南ルーシ諸侯と南ロシア草原のテュルク系遊牧民キプチャク(ポロヴェツ族)の連合軍に大勝したが、征服はおこなわなかった〔〔「キプチャク草原」はペルシア語で、この地で遊牧生活を送るキプチャク族の名に由来する。キプチャク族(漢字表記では「欽察族」)は、東ローマ帝国やハンガリーの記録では「クマン人」の名で登場し、ロシア史では一般にポロヴェツ族と称される。ポロヴェツ族は、個々の部族連合を形成して遊牧生活を送り、ヴォルガ以東の東ポロヴェツは伝統的にホラズムやアラン族との関係が深く、ヴォルガ以西の西ポロヴェツはルーシや東ローマ帝国、ブルガリアなどと強いつながりをもってきた。ルーシとホラズムはポロヴェツ(キプチャク族)を介しての間接的な関わりしかなかったが、ルーシとポロヴェツの関係は密接なものであった。加藤「ロシア古代中世史」 〕。このときの遠征は中央アジアを標的としたものであり、キプチャク草原やロシア方面の占領を目的とした遠征ではなかったため、モンゴル軍はすぐに東方に帰還したのである。 モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイは、1235年、帝国の首都カラコルム(現在のモンゴル国・アルハンガイ県)に王侯・貴族を招集してクリルタイを開催し、西方への大遠征を決定した〔モンゴル帝国の首都カラコルムはモンゴル高原のオルホン渓谷に立地し、大ハーンの本拠地としてオゴデイによって築かれた。中国本土に明が興り、元の中国支配が終わったのちは北元の首都となった。〕。チンギス・ハーンの長男ジョチの采領(ウルス)は帝国の西に割り当てられていたので、征西軍の総指揮官にはジョチの次男バトゥが任じられた〔。1236年、バトゥ率いる大遠征軍は川や沼沢の氷結する冬の到来を待って東ヨーロッパへの大侵攻を開始し、ヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを征服した(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)〔。モンゴル軍は続いてルーシへ侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン(旧リャザン)、ウラジーミル(ウラジーミル・スーズダリ大公国)、トヴェリ、コロムナなどを次々と占領して北東ルーシを征服、さらに1239年から1240年にかけては南ルーシに転進し、キエフ・ルーシ(キエフ大公国、正式な国名は「ルーシ」''Русь'' )の首都キエフを攻略して破壊し、南ルーシの多くの都市や農村を荒廃させた(バトゥの大西征)。 モンゴル軍の征服は、北西に離れたノヴゴロド公国をのぞくすべてのルーシにおよび、1240年までにはルーシの住民ほとんどすべてがモンゴルへの服属を余儀なくされた〔。1241年、バトゥはハンガリー平原(現在のハンガリー)や現在のポーランドを侵略したところでオゴデイ死去の報を聞き、カスピ海北岸まで引き返してヴォルガ川下流に滞留した。この西征により、バトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。ルーシの人びとは、キプチャク族などテュルク系遊牧民が自身よりも東方に本拠を置くモンゴル系遊牧民たちを「タタル」(古テュルク語で「他の人びと」)と呼びならわしていたのにならい、ルーシを征服したかれら東方遊牧民を「タタール」(漢字表記は「韃靼」)と呼んだ〔「モンゴルの歴史 チンギス・ハーン以前のモンゴル」-タタル(タタール) (モンゴル国政府公認 観光・ビジネス情報センター)〕。 ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)は、こののち次第に緩やかな連邦へと傾斜していくモンゴル帝国内で自らの自立性を強めていったため、キプチャク・ハン国(金帳汗国)とも呼ばれる。こうしてノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴル帝国の支配下に組み入れられ、ルーシの人びとはモンゴルへの貢納が強制された。このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいる。「タタールのくびき」は、モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も相次いでモンゴルからの自立を果たすまでの200年以上にわたって続いた。ロシアはその後16世紀初め頃までに「タタールのくびき」を完全に脱するが、その後もクリミア半島やヴォルガ川流域、シベリアなど広範囲にひろがるテュルク=モンゴル系の人々を「タタール」と呼んだ。 やがて、ピョートル1世(大帝)によって18世紀前半に創始されたロシア帝国は、この世紀の末までにはタタール諸民族居住域の大部分を支配下に置くこととなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タタールのくびき」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 List of Mongol and Tatar raids against Rus' 」があります。 スポンサード リンク
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