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タテカワ講 : ウィキペディア日本語版
タテカワ講[たてかわこう]

タテカワ講は、丸川講ともいわれ、江戸時代後期に武蔵国川崎宿堀之内村(現在の神奈川県川崎市川崎区堀之内)の西川伊右衛門によって開かれた富士講身禄派の一派である。
==初代西川伊右衛門==

タテカワ講の創立者で大先達の西川伊右衛門は、富士講の行名を満翁徳行といい、タテカワ講の教線を川崎から横浜の郊外、さらに東京の都心へと拡大している。墓所は川崎区の一行寺で、天保4年に没したことが刻まれている。また、満翁徳行の墓石は富士の人穴(人穴富士講遺跡)にもある。人穴に富士講村上派を中心とした数多くの富士講が墓石や登山記念碑を建立している故例にならい、タテカワ講が建立したものである。富士の人穴は高祖角行藤仏が修行し、入寂したと伝えられ、多くの富士講信徒が訪れた。この人穴を管理していた赤池善左衛門家に伝存していた地代明細帳によると天保6年(1835年)に墓石が建立されたことと墓石の建立はタテカワ講が毎年、富士登山の時に宿坊としていた富士山北口の御師小澤遠江を通して行われたことが記されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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