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タデウス・スティーブンス : ミニ英和和英辞書
タデウス・スティーブンス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

タデウス・スティーブンス : ウィキペディア日本語版
タデウス・スティーブンス[ちょうおん]

タデウス・スティーブンス(サディアス・スティーヴンズ、、1792年4月4日-1868年8月11日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身の弁護士、政治家である。ペンシルベニア州からアメリカ合衆国下院議員となり、1860年代には共和党急進派指導者の1人だった。奴隷制度アフリカ系アメリカ人に対する人種差別に激しく反対し、レコンストラクション時代には、アンドリュー・ジョンソン大統領に反抗してアフリカ系アメリカ人の人権確保に努めた。南北戦争の時は下院歳入委員会の委員長として、戦時財政のために重要な役割を果たした。
スティーブンスはバーモント州の田舎で貧窮の中に生まれ、先天性内反足だったために生涯を通じて足を引きずっていた。若いときにペンシルベニア州に移転し、直ぐにゲティスバーグで弁護士として成功した。その後は自治に関して、さらに政治に関心を持つようになった。ペンシルベニア州下院議員に選出され、無料公共教育の強い推進者になった。1842年に金銭面で困窮したために、より大きな都市であるランカスターに移って法律実務を行った。そこではホイッグ党に加わり、1848年にはアメリカ合衆国下院議員に選出された。弁護士および政治家として奴隷制度に反対したことで、有権者の票を失い、1852年の再選は求めなかった。その後は短期間ノウ・ナッシングに関わった後、結成されたばかりの共和党に入党し、1858年に再度アメリカ合衆国下院議員に選出された。マサチューセッツ州選出アメリカ合衆国上院議員チャールズ・サムナーなど急進派の仲間と共に奴隷制度の拡大に反対し、戦争が近付くと南部に対する譲歩に反対した。
スティーブンスは戦争を通じて奴隷制度を生き延びさせてはならないと論じた。その考えを支持する際に、エイブラハム・リンカーン大統領の動きの悪さに憤慨させられた。下院歳入委員会の委員長として政府の財政政策を誘導した。戦争が北部勝利の方向に動き始めると、奴隷制度を廃止するだけでなく、南部の大地主から土地を没収しそれを解放奴隷に分け与えることで、アフリカ系アメリカ人に南部の未来を託すべきだと考えるようになった。その考え方はあまりに急進的過ぎて、共和党中道派の賛成を得られず、法制化されることは無かった。
1865年4月にリンカーン大統領が暗殺された後、スティーブンスは後継者であるアンドリュー・ジョンソン大統領と衝突するようになった。ジョンソンは解放奴隷に対する保証無しに脱退した州を急速に連邦復帰させようとしていた。この考え方の違いはジョンソンと連邦議会の長引く戦いとなり、スティーブンスは急進派共和党を指導していった。1866年の選挙で躍進した急進派はレコンストラクションの指導権をジョンソンから奪っていった。スティーブンス最後の大きな闘争は下院でジョンソンに対する弾劾決議を確保することだったが、上院はジョンソンを有罪と認めなかった。歴史学から見たスティーブンスに対する見解は時間と共に大きく変化した。20世紀初期からはスティーブンスが向こう見ずで白人南部に対する憎しみによって動かされていたと見られた。1950年代とそれ以降の新奴隷制度廃止論者の観点からは、その平等主義の考え方を称賛されている。
== 少年期と教育 ==
スティーブンスは1792年4月4日に、バーモント州ダンビルで生まれた。男ばかりの4人兄弟の2番目であり、アメリカ独立戦争でアメリカのために戦ったポーランド出身のタデウス・コシューシコ将軍に因んで名付けられた。両親は1786年頃にマサチューセッツ州から移ってきたバプテストだった。タデウスは先天性内反足だった。当時の見方は、兄が両足満足で生まれていたので、親が負っている秘密の罪に対して神が判断されたと見られた。父のジョシュア・スティーブンスは農夫であり、バーモントで生活していくために靴の修理屋をしていた。タデウスの弟2人が五体満足で生まれた後、父は子供達と妻のサラ(旧姓モリル)を捨てた。その出奔の事情やその後の運命については不明である。米英戦争の1814年、オスウェゴの戦いで戦死した可能性がある〔Trefousse, pp. 1–2〕。
母のサラは農場からの上がりで生きていくために苦闘していたが、子供達が成長して次第に助けられるようになっていった〔Meltzer, pp. 3–4〕。サラは子供達に教養を付けさせなければならないと判断し、1807年に家族ごと隣町のピーチャムに移転し、タデウスをカレドニア・グラマースクール(ピーチャム・アカデミーと呼ばれることが多い)に入学させた。タデウスはその障害故に級友から嘲笑された。後の証言では、「頑固で強情」であり、「教育を受けたいという燃えるような望みが強かった」と表現されていた〔Brodie, pp. 26–27〕。
スティーブンスは1811年に学校を卒業すると、ニューハンプシャー州ハノーバーダートマス大学で2回生に編入した。2年目はバーリントンのバーリントン・カレッジ(現在のバーモント大学)で過ごしたが、米英戦争の間に大学のキャンパスを連邦政府に取られたので、ニューハンプシャー州に戻らなければならなかった。ダートマス大学での学業成績は良かったが、同友会のファイ・ベータ・カッパには選ばれず、スティーブンスにとっては心に傷つく経験になったと言われている〔Trefousse, pp. 4–5〕〔Brodie, pp. 27–29〕。
スティーブンスは1814年にダートマス大学を卒業し、卒業式では答辞を読んだ。その後はピーチャムに戻り、短期間は教師をしていた。ダンビルではジョン・マトックス判事に付いて法律を学び始めた。1815年初期、ペンシルベニア州ヨーク市にいる友人に手紙を書いた後、そこに移転した〔Trefousse, pp. 5–7〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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