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タマラ・ド・レンピッカ(、ポーランド語の読みはタマラ・ド・ウェンピツカ、1898年〔1896年説もある。〕5月16日 - 1980年3月18日)はポーランド立憲王国ワルシャワ生まれ〔出生については諸説あり、ワルシャワ生まれであるとするものとモスクワ生まれであるとする説がある。〕のアール・デコの画家。 タマラは本名ではなく、マリア・グルスカ()が出生名であったとする説がある〔 The Grove Dictionary of Art , retrieved on August 20, 2007 〕〔出生名については諸説あり、マリア・グルヴィチ=ゴルスカ(グルスカ)、あるいはタマラ・ロサリア・グルヴィク=ゴルスカ(グルスカ)とするものなどがある。なお、「タマラ」はロシア風、「ド」はフランス貴族風、「ウェンピツカ」という姓はポーランド人のものである。〕。結婚後の姓である (ウェンピツカ〔ポーランド語の文字 (エウ)は、通常英語の W のように発音される。〕)は、ポーランド国外では Lempicka と表記されることが多い。 == 生涯 == === 初期 === 父はポーランド人弁護士ボリース・グールスキイ(ポーランド語の本名はボリス・グルヴィク=グルスキであるが、ロシア帝国支配下のポーランド立憲王国では官庁で使われる公式言語としてロシア語が強制されていたため、登録上はロシア語の綴りおよび発音となる)〔 〕、母マルヴィナ(旧姓デクレル)はポーランド人の上流階級(シュラフタ)出身という、裕福な家庭に生まれる。兄と妹がいた。スイス、ローザンヌの全寮制学校で学んでいた1911年の冬、祖母とともにイタリアとコート・ダジュールに旅行し、そこで、イタリアの巨匠たちの絵画に間近に接する。1912年、両親が離婚すると、裕福な叔母ステファーニヤ・イェンセンのいるロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに行く。母が再婚した時には、ずっとそこで暮らそうと決心した。1913年、15歳の時、オペラ観劇で見初めた美しい男性に恋をする。1916年、叔父のコネを利用して、その男性と結婚する。男性はタデウシュ・ウェンピツキというポーランド人弁護士で、スマートな美男子の女たらしとして有名で、結婚したのも持参金が目当てだったとも言われることがあるが、タデウシュが当時金銭的に困窮していた形跡はなく、一方で当時のポーランド人の社交界の女性の間では女性経験の豊富な美男子を獲らえて結婚することが優れた女の証、亭主は価値ある女である自分を美しい芸術作品として引き立たせるためのただの「額縁」、浮気は女のウサ晴らし、などという女性主導の自由奔放な文化があったことから、激しい性格でプライドが高く競争心の強いタマラの方が、タデウシュに群がる他の女たちを押しのけて金銭で釣るなども含めてあの手この手で彼を獲得することに躍起になったというのが真相のようである。 1917年、ロシア革命が起き、タデウシュは12月のある真夜中にチェキストによって逮捕される。夫には、銃殺の危機が迫っていた。彼女は刑務所を捜し回り、数週間後、スウェーデン領事の助けを借りて、夫を釈放してもらう。それから夫婦でデンマークのコペンハーゲン、イギリスのロンドンを転々とし、最後は、多くの白系ロシア人が逃げのびたフランスのパリに落ち着く。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タマラ・ド・レンピッカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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