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株式会社タマ・プロダクション()は、1965年から2010年代まで存在したアニメーションの企画・制作を主な事業内容とした日本の企業。 == 概要 == * 商号:株式会社タマ・プロダクション * 代表取締役:田中道哉(田中三千哉)〔会社概要" タマ・プロダクション公式サイト内〕 * 所在地:東京都東久留米市幸町1-4-4 当麻ビル1,2階〔 1965年1月、少女漫画家出身のアニメーターの田中英二が作画スタジオのタマ・スタジオとして設立〔原口正宏、長尾けんじ、赤星政尚『タツノコプロ・インサイダーズ』講談社、2002年、p.5〕。 1965年放送の『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』など、虫プロダクションを皮切りに主にテレビアニメの作画を担当〔作品紹介 タマ・プロダクション公式サイト内〕。1967年4月放送の『マッハGoGoGo』から竜の子プロダクション作品に参加〔笹川ひろし『ぶたもおだてりゃ木にのぼる 私のマンガ道とアニメ道』ワニブックス、2000年、p.101〕。以後同社の作画下請けを中心として、タツノコ作品に欠かせない存在となった。少女漫画出身の田中の繊細な女性キャラクターには定評があり、特に毎回ゲストヒロインが登場した1969年の『紅三四郎』では全26話中、17本の作画を担当した〔「須田正己×梅津泰臣」『オトナアニメCOLLECTION いまだから語れる70年代アニメ秘話 テレビまんがの時代』オトナアニメ編集部編著、洋泉社、2012年、p.78〕。タツノコが総作画監督システムを採用した作品でも、タマプロ担当回だけは修正が入らないという信頼関係を築いていた〔原口正宏、長尾けんじ、赤星政尚『タツノコプロ・インサイダーズ』講談社、2002年、p.116〕。 1970年1月に株式会社化〔野田真外編著『前略、押井守様。』フットワーク出版、1998年、p.233〕。。1971年の『正義を愛する者 月光仮面』からはナック(現・ICHI)の作品に参加〔国内アニメーション タマ・プロダクション公式サイト内〕。作画を担当した1974年放送のナック作品『チャージマン研!』は後年、2000年代半ばになってカルト作品として人気を博する〔岡田斗司夫、唐沢俊一、眠田直『オタクアミーゴスの逆襲』楽工社、2009年、pp.11-21〕。 1982年に40代半ばで社長の田中英二が死去〔。以後は田中の実弟の西城隆詞と水口十司がタマプロを代表するアニメーターとして活躍する〔原口正宏、長尾けんじ、赤星政尚『タツノコプロ・インサイダーズ』講談社、2002年、p.113〕。 。 1990年代後半から2000年代前半頃にかけては、ディズニー作品やスティーヴン・スピルバーグの会社の作品など、アメリカ大手の合作の下請けが中心となる〔〔日経BP社技術研究部編『アニメ・ビジネスが変わる アニメとキャラクター・ビジネスの真実』日経BP社、1999年、p.186〕。2007年時点では資本金1,200万円、従業員30名だったが〔、。タツノコプロの社長を務めた成嶋弘毅はグループ・タックや東京キッズが倒産するアニメ不況の中で、かつて仲間だったタマプロの人もタクシードライバーやトラック運転手に転業したと2010年に記している〔成嶋弘毅「『ソフトパワー大国ニッポン』の大嘘」『新潮45』2010年12月号、p.159〕。2011年3月9日に、東京地方裁判所より破産手続開始決定を受け倒産した〔〕〔株式会社タマ・プロダクションの破産情報 平成23年(フ)第2558号 破産データバンク〕〔『官報』第5518号 2011年3月18日付〕。 「タマプロダクション」とクレジットされることもある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タマ・プロダクション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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