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タラホーマ方面作戦(タラホーマほうめんさくせん、英:Tullahoma Campaign、または中部テネシー方面作戦、英:Middle Tennessee Campaign)は、南北戦争中の1863年6月24日から7月3日まで行われた一連の戦闘である〔この方面作戦の期間は史料によって異なる記述がされている。Frisby, p. 1980では、1863年1月から8月となっているが、p. 1981では6月24日から9月9日になっている。Eicher, p. 496では、6月24日から「1週間程度」となっている。Esposito, text for map 108では、6月24日から9日間としているが、タラホーマをチカマウガ方面作戦全体の一部としている。国立公園局 ではフーバーズ・ギャップの戦いをタラホーマ方面作戦あるいは中部テネシー方面作戦と同等としているが、フーバーズ・ギャップに先立つ2月から4月の5つの戦闘を中部テネシー方面作戦として定義している。Woodworth, p. 42では、6月24日から7月3日としているが、ローズクランズが9日間の作戦と呼んだことを引用している。Hallock, p. 7では6月23日から7月3日としている。〕。北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が指揮するカンバーランド軍は、強固な防御陣地から南軍ブラクストン・ブラッグ将軍の指揮するテネシー軍を追い出し、南軍を中部テネシーから駆逐し、テネシー州チャタヌーガに脅威を与えた。 タラホーマ方面作戦は南北戦争でローズクランズが成したほぼ間違いなく最も意義有る功績であり、歴史家達は両軍にほとんど損失が無かったにも拘わらず意義有る目標を達した「輝かしい」作戦と記述した。しかし、同じ時期に行われたゲティスバーグの戦い(7月1日~3日)やビックスバーグ方面作戦(7月4日決着)における北軍勝利の陰に隠れ、敵軍もほとんど手つかずの状態だったので、9月のチカマウガの戦いでローズクランズの悲惨な敗北に繋がってしまった。 == 背景 == ローズクランズとマーフリーズバラのブラッグとの間で戦われたストーンズリバーの戦い(1862年12月31日-1863年1月2日)が損失を出し戦術的には引き分けに終わった後で、ブラッグ軍は約30マイル (48 km)南、ダック川沿いでハイランド・リムと呼ばれる尾根の背後に退いた。小集団の哨兵がハイランド・リムを通る山道を守り、騎兵隊がおよそ70マイル (110 km)ある前線の両側面を守った〔Connelly, p. 113.〕。ブラッグはテネシー州タラホーマに作戦本部を置き、ローズクランズが前進して、重要な鉄道結節点であり、北部ジョージア州へは玄関口に当たる戦略的都市チャタヌーガを占領することを心配した。ブラッグ軍の騎兵隊はその広い前線に広がっていたが、これはローズクランズがその軍隊配置の向きを変え、ブラッグ軍に後退を強いるかあるいは不利な位置で戦うことを迫ることができるかという戦術レベルの心配もあったからだった。ブラッグは、攻撃があるとすればシェルビービルの方向にある渡河の容易なガイズ・ギャップからブラッグ軍の左側面に来るものと考えた。シェルビービルにはレオニダス・ポーク中将が率いる大型の歩兵軍団に強力な塹壕線を造らせた。その8マイル (13 km)右には、ウィリアム・J・ハーディ中将の軍団にウォートレイスで防御を施させ、チャタヌーガに至る主要道路を守り、ハイランド・リムを通る他の3つの道である西のベルバックル・ギャップ、中央のリバティ・ギャップ、東のフーバーズ・ギャップを補強させた。フーバーズ・ギャップはほとんど守りが無かった。そこはストーンズ川とダック川を分ける1100フィート (330 m)幅の尾根の間の全長4マイル (6.4 km)の道だった。この道は大変狭くて2台の荷馬車が擦れ違うのがやっとであり、周りの尾根から見下ろされていた。強力な塹壕線が構築されたが、わずか1個騎兵連隊が配置されただけだった。この方面作戦後、ブラッグはそのタラホーマにおける不適切な配置について批判された。ハーディはその配置が正面攻撃と側面攻撃の両方に対応するものだったとブラッグに告げた〔Woodworth, p. 15; Connelly, pp. 116-18; Korn, pp. 22-23; Lamers, p. 277; Hallock, p. 13.〕。 ローズクランズは占領したマーフリーズバラに6ヶ月間もその軍隊を留め、補給や訓練に時間を使ったが、ぬかるんだ冬の道路を進むことを躊躇したからでもあった。エイブラハム・リンカーン大統領、エドウィン・スタントン陸軍長官およびヘンリー・ハレック総司令官からはブラッグ軍に対する作戦行動を再開するよう何度も要請を受けていたが、冬と春の間はそれらを撥ね付けていた。政府の一番の心配事は、ローズクランズが怠惰に動かなければ、南軍がブラッグ軍の一部を動かして、ユリシーズ・グラント少将がビックスバーグに掛け続けている圧力を弱める試みに向かわせることだった。リンカーンはローズクランズに宛てて、「私は貴方に無分別な行動を採れというのではないが、無分別は問題外として、ブラッグがグラントに対抗するジョンストン軍の支援に動かないように最善を尽くすことを切望している。」と書き送った〔Korn, p. 18; Woodworth, p. 17.〕。ローズクランズは、もし彼がブラッグ軍に対する行動を開始すれば、ブラッグが全軍をミシシッピ州に動かし、グラントのビックスバーグ方面作戦を脅かすことになる可能性があるので、ブラッグ軍を攻撃しないことでグラントを助けているのだという言い訳で答えた〔Woodworth, p. 6.〕。ハレックはローズクランズの言い訳に業を煮やし、ローズクランズが動かなければ解任すると脅したが、最終的には「ローズクランズが政府に打った電報の費用に対して」抗議しただけだった〔Esposito, text for map 108.〕 。 ブラッグ軍はローズクランズの遅滞に苦しんでいた。その軍隊が占拠していたバーレンズと呼ばれる地域は農業には不向きな地帯であり、ローズクランズ軍が攻撃してくるのを待つ間兵士を養っていくことが難しくなっていた〔Woodworth, p. 14.〕。皮肉なことに、ブラッグ軍はチャタヌーガから鉄道で動く南部の農産物を守るために駐屯していたが、これら農産物の大半は東部のロバート・E・リー将軍指揮する北バージニア軍に送られるために、自分達は飢えに近い状態になっていたということである〔Hallock, p. 14; Woodworth, p. 14.〕。 ブラッグの部下の将軍達は、ケンタッキー方面作戦(ペリービルの戦い)やストーンズリバーの戦いで示されたブラッグの指揮に不満を持ち反乱に近い状態になっていた〔Connelly, p. 73; Korn, p. 22.〕。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスはジョセフ・ジョンストン将軍を軍隊の状態を調査させるために派遣することで苦情に応えた。デイヴィスは、ブラッグより上官であるジョンストンならば事態に欠けているところを見付け、野戦で軍隊の指揮を執り、ブラッグを宥めてくれると見ていた。しかし、ジョンストンが現場に到着するとテネシー軍の兵士が比較的良い状態にあることが分かった。ジョンストンはブラッグに「南軍でも最も統率が取れ、武器があり、装備がありさらに規律がある軍隊」を持っていると告げた〔Connelly, pp. 77-80.〕。ジョンストンはこの事態を利用して自分の利益にしようとしていると人々が考えることを怖れ、指揮を執ると示唆するようなことは明白に拒んだ。デイヴィスがジョンストンにブラッグをリッチモンドに派遣するよう命令したとき、ジョンストンはブラッグ夫人のエリーズが病気であることを理由に遅らせた。エリーズの健康が快復したとき、ジョンストンの方がセブンパインズの戦いで受けた傷の長引く治療の問題で指揮を執ることができなかった〔McWhiney, pp. 379-88; Connelly, pp. 85-86.〕。 冬から春の間、両軍共に彼等の好みではあるが概して利益の薄い騎兵隊を襲撃に送り出すことに没頭した〔。ブラッグ軍のおよそ3分の1は騎兵であり、実効数で16,000名と北軍の9,000名を上回っていた〔Connelly, pp. 122-23; Korn, p. 21.〕。2月に南軍ジョセフ・ウィーラー少将が2個騎兵旅団を指揮し、ドネルソン砦を襲撃したがドーバーの守備隊を捕獲できなかった(ドーバーの戦い)。またカンバーランド川では北軍の舟運を混乱させることもできなかった〔Starr, pp. 224-25.〕。3月、ローズクランズはブラッグ軍の通信線を遮断するために分遣隊を送ったが、トンプソン駅の戦いで降伏を強いられた〔Starr, pp. 228-30.〕。3月にはまた、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト准将が、シュビル・アンド・ディケーター鉄道のブレントウッド駅でローズクランズの通信線を襲った(ブレントウッドの戦い)〔Starr, p. 232.〕。南軍ジョン・ハント・モーガン准将は、オハイオ州とペンシルベニア州でその有名な「モーガンの襲撃」を遂行した。騎兵の歴史家スティーブン・Z・スターをして「軍事的狂気」〔Starr, p. 226.〕と言わしめたこの作戦は、モーガンの逮捕で終わった。ジョンストン将軍によってテネシー軍の地域に派遣されたアール・ヴァン・ドーン少将はその使命が不確かであり、どこで陣取るか誰の下に就くかも知らなかった。ヴァン・ドーンは2月から5月にローズクランズの通信線を遮断するのに失敗し、3月にはスプリングヒル北での小さな騎兵戦2回を含む襲撃に関わり、4月にはアラバマ州でストレイトの襲撃の最中にあった北軍アベル・ストレイトのフォレストによる追跡と捕獲に関わった。5月にヴァン・ドーンは民間人に殺害され、フォレストがブラッグ軍左側面の騎兵隊指揮を執った。ヴァン・ドーンがミシシッピ州から連れて来た騎兵の大半は5月に故郷に送り返された〔Connelly, pp. 122-25.〕。この期間に南軍は4,000名の騎兵を失ったが、ローズクランズ軍の供給線に脅威を与えた。北軍も3,300名の騎兵を失ったが、ほとんど見返りは無かった〔。 6月2日、ハレックは電報で、もしローズクランズが動こうとしないのであれば、その部隊の幾らかをグラント軍の支援のためにミシシッピ州に送ることになると伝えた。グラント軍はその時までにビックスバーグを包囲していたが、背後からジョンストン軍に襲われる可能性があった。ローズクランズはその軍団と師団の指揮官達に質問状を送り、ブラッグはそれまでミシシッピ州にいるジョンストン軍にそれなりの軍隊を派遣していないこと、カンバーランド軍を前進させることはそのような派遣を妨げることにはならないこと、および即座の前進は良い考え方ではないことを示して、自分の立場を文書で支持してくれることを期待した。部下の上級将軍17人のうち15人はローズクランズの立場を支持し、進軍しないという案は全員一致で賛成された。唯一不満を表明したのは新しく配属になった参謀長ジェームズ・ガーフィールド准将であり、即座の進軍を推奨した。歴史家のスティーブン・E・ウッドワースは、ガーフィールドの意見表明がワシントンに与える政治的印象を最も心配して」いた可能性があると言った〔Woodworth, p. 17; Lamers, pp. 269-71.〕。6月16日、ハレックは電報で無愛想な伝言を送った。「即座の進軍を行うつもりか?イエスかノーか明確な答えを請う。」この最後通牒にローズクランズは「もし即座というのが今日か明日ということなら答えはノーだ。それが全てが整えば直ぐにと言うことなら、例えば5日後ということなら答えはイエスだ。」と返信した。それから7日後、6月24日の早朝に、ローズクランズはカンバーランド軍がブラッグ軍に対して進軍を始めたと報告した〔Woodworth, p. 18; Korn, p. 21.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タラホーマ方面作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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