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デイヴィッド・“タンク”・アボット(''David "Tank" Abbott''、1965年4月26日 - )は、アメリカ合衆国の男性総合格闘家、プロレスラー。カリフォルニア州ハンティントンビーチ出身。ピットファイティング所属。 == 来歴 == アメリカンフットボールコーチであった父親の影響で5歳の頃からアメリカンフットボールを始め、9歳になるとレスリングを始めた。中学時にレスリングでオールアメリカンに選抜されたこともあるが、交通事故で左膝に大怪我を負いその道を断念した。高校入学後、金を賭けるストリートファイト「ピットファイティング」を行うようになり、本人曰く、負けることはほとんどなかったという〔竹内規和 『ザ・バーリトゥーダー 極強への挑戦』 フットワーク出版、1998年。〕。 カリフォルニア州立大学ロングビーチ校卒業後、働きながらもストリートファイトに明け暮れる生活を送っていたが、逮捕され刑務所に入れられた。刑務所でストリートファイト時代に名を馳せていたキモがUFC 3でホイス・グレイシーを追い込んだことに刺激を受け、UFC参戦を決意した〔。 1995年7月14日、UFC 6トーナメントに「喧嘩150戦無敗」のキャッチフレーズでUFC初参戦。身長188cm、体重181kgのジョン・マツアを開始20秒で失神KOした。決勝ではオレッグ・タクタロフのサンボテクニックの前に敗れ、優勝を逃すも勝ったタクタロフに一人では起き上がれないほどの深いダメージを与え、一夜にして人気者となった。 1995年12月16日、Ultimate Ultimate 1995トーナメント1回戦ではUFC 3優勝者で現役警察官のスティーブ・ジェナムと対戦。相手の頭を頭で金網に押し付けただけでタップアウト勝ち。〔なお、この試合では流派を「ボクシング」と紹介されていた。〕準決勝でUFC 5優勝者のダン・スバーンに敗れたが、後頭部を200発以上殴られても決してタップせず、判定負けがコールされる前に平然とオクタゴンを立ち去った(この姿には勝者のスバーンも驚愕していた)。 1996年12月7日、Ultimate Ultimate 1996ではダン・スバーンの弟子でUFC 8優勝のドン・フライと戦い、開始早々にジャブでダウンさせるものの、寝技に持ち込まれチョークスリーパーで一本負け。 1997年5月30日、UFC 13でビクトー・ベウフォートと対戦し、自身初のTKO負けを喫した。 1997年10月11日、PRIDE.1でキモ戦が組まれたが、試合の直前に傷害事件を起こし、来日不可能となった。代打として偶然プロレスで来日していたダン・スバーンがキモと対戦した。 1997年10月17日、UFC 15のUFC世界ヘビー級タイトルマッチでダン・スバーンの代役として王者モーリス・スミスに挑戦し、ローキック連打でギブアップ負けを喫し王座獲得に失敗した。 1997年12月21日、日本で開催されたUFC Japanのヘビー級トーナメント1回戦で安生洋二と対戦し、パウンドで攻め、3-0の判定勝ち。しかし、この試合で拳を骨折し決勝戦を棄権した。 1998年5月15日、UFC 17でウゴ・デュアルチと対戦し、パウンドでTKO勝ち。 1998年10月16日、UFC Brazilでペドロ・ヒーゾと対戦し、右ストレートでKOを負けを喫した。 1999年からメジャープロレス団体のWCWに入団。同団体が解散した2001年まで在籍した。 2005年8月28日、PRIDE初参戦となったPRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦で吉田秀彦と対戦し、片羽絞めで一本負けを喫した。 2007年4月21日、Cage Rage 21で欠場したボブ・サップの代役として急遽出場。ゲーリー・ターナーと対戦し、1RTKOを喫した。 2008年2月16日、EliteXCでキンボ・スライスと対戦し、開始43秒でKO負けを喫した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タンク・アボット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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