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タンジャーヴール・ナーヤカ朝(タンジャーヴール・ナーヤカちょう、英語:Thanjavur Nayaka dynasty)とは、南インドのタミル地方(現タミル・ナードゥ州)に存在したヒンドゥー王朝(16世紀 - 1673年あるいは1675年)。ナーヤカ朝の一つでもある。首都はタンジャーヴール(タンジョール)。 ==歴史== ===ヴィジャヤナガル王国の忠臣として=== 16世紀頃から、タンジャーヴールにおいて、ヴィジャヤナガル王国にナーヤカ(ヴィジャヤナガル王国の領主層)として仕えていた有力な一族の支配がみられるようになった。 このタンジャーヴール・ナーヤカ朝の君主たちは、首都タンジャーヴールにあるブリハディーシュヴァラ寺(11世紀にチョーラ朝の王ラージャラージャ1世の命で建設されたシヴァ寺院)を居城の一つとした。 ヴィジャヤナガル王国最盛期の王クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの記録や、その弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤの記録などがある。 このナーヤカ一族は、ヴィジャナガル王国で地方長官クラスの大ナーヤカあったことも知られ、、セヴァッパ・ナーヤカ(在位1532 - 1580)が初期の君主として知られている。 1560年以降、セヴァッパ・ナーヤカは、息子のアチュタッパ・ナーヤカ(在位1560 - 1614)と共同統治を行うようになった(アチュタッパ・ナーヤカの名は、ヴィジャヤナガル王アチュタ・デーヴァ・ラーヤの名のとって名付けられたものである)。 1565年、アチュタッパ・ナーヤカの治世、ヴィジャヤナガル王国がターリコータの戦いにおいて敗北した後、ほかのナーヤカは独立の動きを見せ、事実上半独立の立場をとったが、タンジャーヴール・ナーヤカは王国に忠実だった。 この間、1580年にセヴァッパ・ナーヤカは死に、アチュタッパ・ナーヤカが単独で統治するようになった。 アチュタッパ・ナーヤカの治世は、共同統治もあわせるとと54年にもおよび、その間に有能な宰相ゴーヴィンダ・ディークシタルの補佐もあり、王国は平和が保たれていた。 また、主家のヴィジャヤナガル王国を助け、反抗的なナーヤカや、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の侵略軍との戦いでも、援軍として活躍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タンジャーヴール・ナーヤカ朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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