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タンス・チルレル
タンス・チルレル(, 1946年4月24日 - )は、トルコの経済学者、政治家。正道党党首で、トルコ共和国初の女性首相(在任1993年6月 - 1995年9月、1995年11月 - 1995年12月)。 == 経歴 == 1946年、イスタンブル生まれ。英語で講義を行うトルコの名門校ロバート・カレッジ(現在のボアズィチ大学(ボスポラス大学))を卒業した後、米イェール大学大学院に留学し、1970年にコネティカット大学で経済学により博士号を取得した。1974年より母校ボアズィチ大学経済学部教授に就任、1990年にスュレイマン・デミレル元首相の誘いでデミレル率いる中道右派政党正道党に入党、直ちに経済担当副党首に起用され、翌1991年にはイスタンブル選挙区から正道党所属の国会議員に初当選し、デミレル内閣の元で経済担当国務相に任命された。1993年、トゥルグト・オザル大統領が死去し、デミレル首相が後任大統領に選出されたのに伴い行われた臨時党大会で対立候補を抑えて党首に選出、同年6月13日に正道党党首を引き継ぎ、翌14日に連立内閣を組閣して首相に就任した。当時のトルコは経済状況が悪化に向かっており国是の欧州連合(EU)加盟の障害となりつつあったために、経済問題と英語を得意とし、またトルコで初めての女性首相としてしばしば女性差別などとマイナスの見方をされやすいイスラム教国のイメージを打開するのにも効果があるチルレルが起用されたものである。 チルレル首相は在任中、EUとの関税同盟締結や国営企業の民営化などの経済改革を進めたが、インフレーション、株価と通貨の暴落といった1990年代に急転直下に進んだトルコ経済の崩壊は食い止められず、またトルコ東南部で激化するクルド人ゲリラ組織、クルド労働者党の制圧にも手間取り、また政権をめぐるスキャンダルも発覚して次第に人気が低下した。1995年9月に首相の不正蓄財疑惑をきっかけに連立内閣が崩壊したが、11月には第2次チルレル内閣を再組閣する。しかし、同年12月の選挙でイスラム擁護派政党の福祉党が第一党に躍進する一方で正道党は第三党に転落したため首相を辞任した。 選挙後は当初、トルコの国是である世俗主義に反するイスラム擁護を掲げる福祉党の政権獲得を妨げるために、1996年3月に中道右派祖国党のメスト・ユルマズ党首を首相として連立内閣を組閣するが、両党および両党首の確執からすぐに倒壊した。その後、福祉党のエルバカンと連立を組み、自らは副首相兼外相に就任するが、翌1997年に、同政権は軍部の圧力により崩壊した。以来、野党党首として正道党を率いたが、2002年11月の総選挙では正道党の得票率が議席獲得要件に満たなかったために議席を失い、翌月の党大会で党首の座を降りた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タンス・チルレル」の詳細全文を読む
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