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タンネンベルク会戦 : ミニ英和和英辞書
タンネンベルク会戦[いくさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 
会戦 : [かいせん]
  1. (n,vs) engagement 2. battle
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

タンネンベルク会戦 ( リダイレクト:タンネンベルクの戦い (1914年) ) : ウィキペディア日本語版
タンネンベルクの戦い (1914年)[たんねんべるくのたたかい]

タンネンベルクの戦い(タンネンベルクのたたかい、Schlacht bei Tannenberg)は、第一次世界大戦が勃発した1914年に生起した、ドイツ帝国ロシア帝国間の最初の戦いである。1914年8月17日から9月2日にかけて、ロシア軍の第1軍(6個師団半と騎兵5個師団)・第2軍(10個師団と騎兵3個師団)と、ドイツ軍の第8軍(7個師団と騎兵1個師団)によってドイツ領内の東プロイセンタンネンベルク周辺で戦われた。ロシア軍の兵力はドイツ軍の2倍以上であったが、ロシア軍は無線による指令文に暗号を用いなかった。これをドイツ軍は傍受した。
戦いの結果、ロシア第2軍は東プロイセンで包囲殲滅され、残ったロシア第1軍はロシア領内への撤退を余儀なくされた。この戦いで注目すべきは、ドイツ軍が鉄道を利用して素早く大量の兵力を移動させ、ドイツの1個軍が、それぞれ自軍の兵力を上回るロシアの2個軍の各個撃破に成功したことである。
なおこの戦いが実際に行われたのはオルシュティンの近くであったが、ルーデンドルフの補佐官であったホフマン大佐の提案によって1410年のタンネンベルクの戦いにちなんで名付けられたものである。歴史的な戦いとは直接の関連こそなかったものの、ドイツ人とロシア人、ゲルマン民族とスラヴ民族のナショナリズムを高めるための物語として使われた。
== 背景 ==
英仏連合軍はロシアが東部戦線を形成してくれることによって西部戦線においてドイツ軍を食い止める事ができると計画していた。しかしロシアの鉄道網の整備の不徹底によって満足に兵を輸送できなかった。また南のオーストリア、極東の日本の存在によりロシアの東部戦線への干渉は限られたものとなった(ただし日本は1914年8月23日に連合国としてドイツに対して宣戦布告している)。
一方ドイツ側はロシアを第一の脅威と認識していた。シュリーフェン・プランはフランスを可能な限り早く降伏させた後、鉄道によって兵を東部戦線に輸送するという発想に基づいていた。
ドイツ第8軍はケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)に位置しており、ロシアは第1軍をケーニヒスベルクの東に、第2軍を南に位置していた。特に第2軍はポーランド突出部として知られる場所に配置されていた。ロシア側の作戦ではパーヴェル・レンネンカンプ指揮下の第1軍が東プロイセン、特にケーニヒスベルクにおいて攻勢を行う予定であった。アレクサンドル・サムソノフ指揮下の第2軍がヴァルミア=マズールィ周辺へと西進したあと北上してドイツ軍をケーニヒスベルクにて孤立化させる予定であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「タンネンベルクの戦い (1914年)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Tannenberg 」があります。




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