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ターラー・バーイー : ミニ英和和英辞書
ターラー・バーイー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ターラー・バーイー : ウィキペディア日本語版
ターラー・バーイー[ちょうおん]

ターラー・バーイーマラーティー語:ताराबाई, Tara Bai, 1675年 - 1761年12月9日)は、インドデカン地方マラーター王国の君主ラージャーラームの妃。シヴァージー2世の母でもある。
==Early life==
1675年、ターラー・バーイーはマラーター王国の武将ハンビー・ラーオ・モーヒテーの娘として生まれた〔Satara 3 〕。また、彼女はシヴァージーの妃ソーヤラー・バーイーの命にあたる人物であった。
1683年、ターラー・バーイーはマラーター王国の王子ラージャーラームと結婚した。当時、シヴァージーの死後、息子ラージャーラームを擁立しようとしたソーヤラー・バーイーは殺害されており、年長の兄たるサンバージーが王位にあった。
1689年2月、サンバージーがムガル帝国との戦争(デカン戦争)で捕えられ、3月に処刑されると、新王にラージャーラームが擁立された。その後、彼らはラーイガド城を捨て、シェンジに立て籠もった。
1696年6月9日、ムガル帝国軍がシェンジを包囲するさなか、シヴァージー2世を生んだ〔Satara 3 〕。のち、シェンジが陥落する前にラージャーラームとともに逃げ、サーターラーを拠点とした〔Satara 3 〕。
1700年3月3日、ラージャーラームが死亡し、シヴァージー2世がマラーター王となった。なお、彼は幼少であったため、ターラー・バーイーが摂政となった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211〕。ターラー・バーイーは有能な人物であり、帝国側から多くの城を奪還した。
1707年3月、皇帝アウラングゼーブが死亡し、5月に帝国軍がデカンから撤退すると、シャーフーは釈放され自由の身となった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211〕。シャーフーはマラーター王位を要求し、サーターラーに向けて進み、アフマドナガルで兵を集めた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212〕。だが、シヴァージー2世を擁するターラー・バーイーはこれを認めず、彼女も兵を集めた。
同年10月12日、ターラー・バーイーの軍勢はプネーの近郊ケードおいて、シャーフーの率いる軍勢に破られた(ケードの戦い)〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212〕。ターラー・バーイーは戦場を逃げ、シャーフーはサーターラーに進軍した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212〕。
その後、同年12月にシャーフーはサーターラーに入城し、1708年1月12日にマラーター王として即位した〔Satara 3 〕。一方、廃位されたシヴァージー2世はコールハープルに分国を与えられた。
だが、ターラー・バーイーはシャーフーがマラーター王となったとはいえ、王国内で隠然となる力を持った〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212〕。結果として、それはバーラージー・ヴィシュヴァナートをはじめとする宰相一族の権力の伸長に繋がった。
1749年12月15日、マラーター王シャーフーがサーターラーで死亡し、王位はシヴァージー2世の息子ラージャーラーム2世が継承した〔Satara 3 〕。この継承には祖母であるターラー・バーイーの後押しがあってからこそだった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216〕。
だが、ターラー・バーイーがラージャーラーム2世を自身の孫ではないと言い出すなど、両者はすぐに不和になり、王国内に混乱した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216〕。そのため、1750年に宰相バーラージー・バージー・ラーオは王国の行政府を王都サーターラーからプネーに移した。その結果として王権はさらに無力化し、国家の全権が宰相の手に移った〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.216〕。
1761年12月9日、ターラー・バーイーはサーターラーで死亡した。また、その年の1月には第三次パーニーパットの戦いが勃発しており、マラーター王国は大敗を喫している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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