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ダイアナ・ドース(Diana Dors、1931年10月23日 - 1984年5月4日)は、イギリスの女優。しばしば「イギリスのマリリン・モンロー」と形容される、1950年代を代表するセックスシンボルの1人である。Diana d'Orsの綴りでクレジットされる事もあった。 ==人物== イングランドのスウィンドンで、ダイアナ・メアリー・フラック(Diana Mary Fluck)として生まれる。生まれつきの髪の色はブラウンであったが、8歳の時には既にグラマラスな映画スターになると作文に書き記している〔。第二次世界大戦中は父が組織したコンサートで軍隊を慰問した〔。14歳の時に両親を説得して、ロンドン・アカデミー・オブ・ミュージック・アンド・ドラマティック・アート (LAMDA) に史上最年少で入学した〔。 15歳で故郷を離れ、髪をブロンドに染め、『''The Shop at Sly Corner'' 』(1947年) の端役でスクリーンデビューを果たした〔。初めて重要な役を与えられたのが1948年の映画『''Here Come the Huggetts'' 』である。翌年の『''Diamond City'' 』で初主演を射止めた〔。ダイアナ・ドースは、多くのランク・オーガニゼーション(Rank Organisation) の映画に出演した。マリリン・モンローの台頭と時を同じくして、ドースの外見はそっくりではないものの、著しくモンローに類似したものに変化している。彼女は、自らの私生活を反映したかのような、報われない愛に苦しむ女性を繰り返し演じた。 彼女はイギリスにおける「ハリウッドの悩殺的ブロンド美女」に相当すると見なされていた。かなりの演技力の持ち主でもあったが、彼女の仕事の大半はソフトコアポルノまがいのシーンを呼び物にしたセックスが主題のコメディから成っており、その演技力を充分には発揮できない運命にあった。 キャリアの後期には性格俳優として『''The Amazing Mr. Blunden'' 』(1972年) や『''Timon of Athens'' 』(1981年) のように嫌悪感を抱かせる人物をも厭わずに演じた。彼女の成功は、20歳というイギリスで最も若い年齢でロールス・ロイスの所有者になった事でも窺い知れる。 映画愛好家によれば、女優としての彼女の最高の仕事は殺人者を演じた1956年の映画『''Yield to the Night'' 』である。『''Yield to the Night'' 』はイギリスで同年のロイヤル・コマンド・フィルム・パフォーマンス(王室が招待する映画上映会)に選出され、この時点でドースは国内で最も高額のギャラを誇る女優になっていた〔。翌1957年、ドースはついにハリウッド進出を果たし、ジョン・ファロー監督(ミア・ファローの父親である)のユニバーサル映画『金髪の悪魔 ''(The Unholy Wife)'' 』に主演した。しかし共演者のロッド・スタイガーと不倫関係に陥ってしまう。女好きであったスタイガーはドースの肉体の魅力を看過できなかった。 ドースもスタイガーも当時既婚者であり、この事はスキャンダルとなってドースの順風満帆だった経歴に影を落とした(スタイガーは結局1958年に離婚し、翌年クレア・ブルームと再婚した)。結果的にドースのハリウッド進出は不首尾に終わり、以後彼女が国際的スターになる機会は失われてしまう〔。 1960年代は彼女にとって不遇の時代であった。2度目の夫とも離婚し、財政的にも破綻した。体重が増加して往年のセックスシンボルの面影は無くなり、低予算のセックスコメディやホラー映画の出演に終始した。しかし1970年に3番目の夫、アラン・レイクと共演したウエスト・エンドの舞台『''Three Months Gone'' 』は好評をもって迎え入れられた〔。1974年には髄膜炎で昏睡状態に陥った。完全に回復する事は不可能ではないかと診断されていたが、彼女は万全な状態まで復帰した〔。復帰後も良い役には恵まれなかったが、テレビのバラエティ番組出演や性格俳優としての時折の映画出演で健在であった。まだ彼女はイギリス国民に愛されていた。1982年に卵巣癌が発見されたが、ドースはこれを克服したかに見えた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイアナ・ドース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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