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ダイアン・フォーチュン(Dion Fortune 、1890年12月6日 - 1946年1月8日)は、英国のオカルティスト、著述家、神秘家である〔Richardson (1987), p 26.〕。西洋の秘教を学び、近現代の魔術復興において重要な役割を果たした。フロイトとユングの影響を受けて魔術に精神分析学や分析心理学の概念を導入し、の研究も行った。の優れた教育者として知られる。小説とノンフィクションの両面において超自然とオカルティズムに関する多作な書き手でもあり、長編『あの人は悪魔』や『タヴァナー博士の秘密』シリーズを執筆している。 ディオン・フォーチュンとも表記される。本名はヴァイオレット・メアリー・ファース (Violet Mary Firth)。内輪の取り巻き連からはDFと呼ばれていた。筆名のダイアン・フォーチュンは自身のである Deo Non Fortuna を縮めた名で、生家のファース家の紋章に刻まれた銘も "Deo, non-fortuna" (ラテン語で「運ではなく神によって」)であった〔元はディグビー男爵・伯爵家の古いモットー。〕〔Knight 2000, p. 2.〕。 ==略歴== ウェールズはのブラン・ア・ビアでクリスチャン・サイエンスを信奉する家庭に生まれる〔Drury 1992.〕。自身の述べたところによると、4歳でアトランティスの幻視を体験し、20歳で心霊的能力を発現させたという〔Chapman 1993, p. 3-5.〕。 フォーチュンの経歴は確たる情報に乏しい。1910年にロンドンの聖ジョージ秘書養成学校で働き〔光の侍従 (SOL) のサイト内にあるダイアン・フォーチュンのバイオグラフィー。〕、1911年にスタッドリー女子農学校に入学、1913年に同校を卒業後、その職員となったが、ほどなくして校長と衝突して退職したという(後にフォーチュンはこの校長から心霊的攻撃を受けたと主張した)〔Greer 2013, p. 179.〕。この時に精神衰弱を患ったことがきっかけで心理学に関心を持つようになり、1914年にロンドンの医療心理クリニックの研修生となる〔SOLのバイオグラフィーによると1913年。〕。ブランズウィック・スクエアの医療心理クリニックで療法士として働き〔Knight 2000, p. 29. および Richardson, p. 54. ただし Janine Chapman は著書 ''Quest for Dion Fortune'' (p. 6) で、クリスティン・ハートリーを引用してフォーチュンはタヴィストック診療所で働いていたと述べる。〕、その後ロンドン大学で精神分析学の講義を聴講し〔Chapman 1993, p 5.〕(講師は心霊現象研究協会の会員でもあったフリューゲル教授であった)、1918年に在野の精神分析家となった〔Drury 2011, pp. 127-134.〕。第一次世界大戦期であったこの頃、ロンドンの神智学協会に接触してたびたび研究会に参加したり、おそらく勤務している診療所で出会ったであろう医師セオドア・モリアーティ (Theodore Moriarty, 1873-1923) の影響を受け、オカルティズムに関心を持つようになった〔〔Goodrick-Clarke 2008, pp. 206-207.〕。モリアーティは後にフォーチュンの小説に登場するタヴァナー博士のモデルとなった。 1927年に医師トーマス・ペンリー・エヴァンズと結婚、同年、最初の長編小説『あの人は悪魔』 ''The Demon Lover'' を発表。1938年、エヴァンズと離婚し〔、同年、長編小説『海の女司祭』 ''The Sea Priestess'' を発表。1946年、ミドルセックスにて白血病のため55歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイアン・フォーチュン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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