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ダイタクヘリオスとは日本の競走馬である。1991、1992年のマイルチャンピオンシップ優勝馬。種牡馬としても2000年度のJRA賞最優秀短距離馬・ダイタクヤマトを送り出し、父・自身・子と3世代続けて内国産種牡馬として供用された。 馬名の由来は冠名「ダイタク」とギリシア神話の太陽神「ヘリオス」より。中央競馬の競走体系が整備された2008年現在ではめずらしくなったが、おもに短距離路線で活躍しながら有馬記念のような長距離競走にも出走していた。 ※馬齢については、現役時代に合わせ当時の数え年で表記する。 == 経歴 == === 競走馬時代 === 3歳秋にデビューし3戦目の新馬戦で勝ち上がる〔当時は同一開催期間中の新馬戦に最大4回出走(4連闘)できた〕と、格上挑戦となった4戦目のデイリー杯3歳ステークスでは4着に敗れるも、5戦目の条件戦を勝ってオープン入りした。なお、この勝利が生涯唯一の「単勝1番人気で1着」であった。そして次に出走した阪神3歳ステークスでは2着と健闘した。 4歳初戦はシンザン記念で2着に入った。父・ビゼンニシキが果たせなかったクラシック制覇の期待をかけられるも、距離が伸びたきさらぎ賞・皐月賞トライアルのスプリングステークスで惨敗したことで短距離路線に転向し、GIIIのクリスタルカップとオープン特別の葵ステークスに優勝する。続けてニュージーランドトロフィー4歳ステークスでは2着。秋はマイルチャンピオンシップにぶっつけで挑戦するが、初めて後手から進むこととなり惨敗した。その後、オープン特別のシリウスステークスとGIスプリンターズステークスでは4着・5着と、勝ちきれないレースが続いた。 5歳緒戦の淀短距離ステークスは4着に終わったが、続いて出走したマイラーズカップ〔阪神競馬場が改修中だったため中京競馬場・1700メートルで行われた。〕を5馬身差でレコード勝ちする。しかしその後はダービー卿チャレンジトロフィーで1番人気に推されるも4着、京王杯スプリングカップではダイイチルビーの6着と敗れる。そのため安田記念では10番人気であったが、レースでは道中好位を追走し、最後の直線で先頭に立ったところをダイイチルビーにかわされたものの、それでも粘って2着となった。その後CBC賞は2番人気で5着に終わったが、高松宮杯〔当時は芝2000メートルのGIIであった。〕では、安田記念で本馬に勝ったダイイチルビー〔なお同馬は同競走での母子3代制覇がかかっていた。〕と叩き合いの末にハナ差で勝利した。秋に入り毎日王冠2着、スワンステークス9着のあとに出走したマイルチャンピオンシップではダイイチルビー・ケイエスミラクル・バンブーメモリーに次ぐ4番人気だったが、第3コーナーで先頭に立つと、ダイイチルビーに2馬身半の差をつけて優勝し、GI初勝利となった。次いで有馬記念に出走、距離不適と言われながらも5着となった。 6歳になっても、マイラーズカップを60キログラムの負担重量を背負いながら昨年に続く5馬身差の圧勝で、グレード制導入以後では初となる連覇を達成した。(同一の平地重賞を2年連続5馬身以上の差で勝った馬は、後にも先にもヘリオス1頭だけである。)その後の3戦で2・1・2番人気に推されたが、連続して馬券対象から外れた。しかし毎日王冠をレコードタイムで逃げ切り、秋の天皇賞では3番人気になった。奇しくもその天皇賞には父・ビゼンニシキのライバルであったシンボリルドルフの仔・トウカイテイオーが出走していた。しかしダイタクヘリオスはメジロパーマーと超ハイペースで逃げた末に失速、これを追走したトウカイテイオーも実力を発揮できず、後方に控えていた人気薄のレッツゴーターキンとムービースターが1、2着となった。続いて前年優勝したマイルチャンピオンシップに出走した。1番人気をここまで4連勝中の4歳牝馬シンコウラブリイに譲るも、当時のレコードタイムで連覇した。その後はスプリンターズステークスに出走しひさびさの1番人気になるも4着、最後は連闘で有馬記念に出走しふたたび天皇賞と同じくメジロパーマーと激しく競り合った結果、12着に敗れた。これを最後に競走馬を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイタクヘリオス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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