|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ザ・ダイナマイト・キッド(The Dynamite Kid)のリングネームで知られるトム・ビリントン(Tom Billington、本名:Thomas Billington、1958年12月5日 - )は、イギリス出身の元プロレスラー。日本ではリングネームをそのまま直訳し「爆弾小僧」などの異名を持った。 英国マットを経てカナダのカルガリーで頭角を現し、1980年代後半はWWFでも活躍。日本マットにおいてはタイガーマスクと抗争を展開し、「肉体の表面張力の限界」とまで言われた鍛え抜かれた筋肉を備え人気を博した。 過剰なまでの受身で対戦相手の攻撃を引き出す一方で、スピーディかつ直線的、自らの危険すら顧みない妥協なき攻撃スタイルから「剃刀戦士(カミソリファイター)」とも形容された。このスタイルは後世のレスラーらにも多大な影響を与え、彼を目標に掲げるレスラーは今なお多い〔『Gスピリッツ Vol.28』、P11。〕。 ==来歴== 元プロレスラーのテッド・ベトレーに師事し、彼の紹介でビリー・ライレー・ジムにも出稽古に行くなどしてシュート・レスリングを学び〔『Gスピリッツ Vol.28』、P51。〕、1975年に17歳でデビュー。ビッグ・ダディらクラブトリー3兄弟の主宰するジョイント・プロモーションズを活動拠点に、1977年はローラーボール・マーク・ロコと抗争〔『Gスピリッツ Vol.16』P26(2010年、辰巳出版、ISBN 4777808017)〕、1978年1月25日にはジム・ブリークスからブリティッシュ・ウェルター級王座を奪取した。同年4月にカナダのカルガリーへ渡り、スチュ・ハートのスタンピード・レスリングに定着、7月に英連邦ミッドヘビー級王座の初代王者に認定されている。以降ブレット・ハートと同王座を争い〔、元NWA世界ジュニアヘビー級王者のネルソン・ロイヤルとも対戦した〔DVD-BOX『国際プロレスクロニクル 上巻』DISC.4(2010年、クエスト)〕。 1979年7月、「英連邦ジュニアヘビー級王者」として国際プロレスの「'79ビッグ・サマー・シリーズ」に初来日し、7月19日の北海道木古内町大会にて寺西勇を破り来日初戦を飾る。7月20日には秋田県大館市で阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦し、翌7月21日には新潟県村上市で原と国際プロレス初のラウンド制のダブル・タイトルマッチを行い引き分ける〔『忘れじの国際プロレス』P103〕(この3試合は東京12チャンネル『国際プロレスアワー』で録画中継された〔『忘れじの国際プロレス』P99〕)。国際プロレス来日時のギャラは、カルガリーにおけるギャラの週400ドルを上回る週1000ドルだったとされる〔『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol8 』P53 - P56〕。しかし、同時期に国際プロレスと提携していた新日本プロレスもスタンピード・レスリングに急接近し、初来日直後の同年8月にアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳のカルガリー遠征を実施、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の90分特番において、8月18日に行われた藤波VSキッドのWWFジュニアヘビー級王座戦を録画中継した。翌1980年1月、国際プロレスはキッドの再来日を予定していたものの、最終的には新日本プロレスへの移籍が決定する〔。以降、新日本のジュニアヘビー級戦線にて、藤波辰巳や初代タイガーマスクのライバルとなって活躍。1984年1月に開催されたWWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦では、従兄弟のデイビーボーイ・スミスおよびザ・コブラとの三つ巴決勝戦を制してチャンピオンに輝いている。 この間、北米ではカルガリーを主戦場にしつつアメリカ合衆国本土にも進出。1982年8月30日には新日本のブッキングでニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初登場し、初代タイガーマスクと対戦している。1983年はオレゴン州ポートランドを拠点とする太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)で活動、9月7日にカート・ヘニングを破りNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得し、11月12日にはジ・アサシン(デビッド・シェラ)と組んでヘニング&バディ・ローズから同タッグ王座を奪取した。本拠地のスタンピード・レスリングでは、1984年3月9日にキラー・カーンを破りフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得している。 1984年11月、全日本プロレスへデイビーボーイ・スミスと共に移籍。新日本の「第4回MSGタッグ・リーグ戦」に出場が予定されていたキッド&スミスが全日本の「'84世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦するという衝撃的な移籍劇だった。キッド&スミスは、この移籍は当時新日本が提携していたWWFのカルガリー侵攻に対する反発であり、全日本サイドもアメリカでのNWA対WWFのレスリング・ウォーが原因であるとして、引き抜きではないことを主張していた〔『Gスピリッツ Vol.28』、P28-30。〕。この事態を受け、MSGタッグリーグ戦の立会人として来日していたWWFの総帥ビンス・マクマホン・ジュニアは、新日本の坂口征二副社長の橋渡しでジャイアント馬場とトップ会談。選手引き抜き問題に関して話し合ったとされるが〔、翌1985年もキッド&スミスは日本では全日本プロレス、アメリカではWWFを主戦場に活動しており、実際は単なる表敬訪問に終わっている〔。なお、キッドはこの時期にスミスと共にウエイトアップを図りヘビー級へ転向した。当時の公称として108kgまでビルドアップしたとされている。当時はテレビ朝日との契約問題がクリアされておらず、キッドの「'84世界最強タッグ決定リーグ戦」における試合は『全日本プロレス中継』では放送されなかった〔。 1985年よりWWFに本格参戦し、スミスとのタッグチーム "ブリティッシュ・ブルドッグス" で活躍。1986年4月7日にはレッスルマニア2のロサンゼルス大会に出場し、ドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)からWWF世界タッグ王座を奪取した。シングルでは、 1985年11月7日のPPV "ザ・レスリング・クラシック" で行われた16人参加のワンナイト・トーナメントに出場、1回戦でニコライ・ボルコフ、2回戦でアドリアン・アドニスを破り勝ち進んだが、準決勝でランディ・サベージに敗退した。また、ブリティッシュ・ブルドッグスのライバルチームだったルージョー・ブラザーズのジャック・ルージョーとは犬猿の仲で、バックステージでの私闘騒ぎを起こしている。 1986年12月13日、カナダのハミルトンでのタッグマッチ(ブリティッシュ・ブルドッグスvsカウボーイ・ボブ・オートン&マグニフィセント・ムラコ)において、試合中のアクシデントにより椎間板に重傷を負った。この負傷は、キッドのその後の選手生命に大きな影響を与えることとなった。 1988年末にWWFを離脱し、1989年からは再びスタンピード・レスリングおよび全日本プロレスへ復帰。1990年にデイビーボーイ・スミスとのコンビを解散してからはジョニー・スミスとニュー・ブリティッシュ・ブルドッグス(ブリティッシュ・ブルーザーズ)を結成し、1991年4月6日に小橋健太&菊地毅を破りアジアタッグ王座を獲得した。スタンピード・レスリングではブッカー業務も手掛け、スモー・ハラこと北原光騎をカルガリーにブッキングしている〔『Gスピリッツ Vol.28』、P38。〕。 1991年の世界最強タッグ決定リーグ戦最終日に現役引退を表明したが、1993年7月に復帰。1996年10月にはみちのくプロレスの両国国技館大会に来日。ドス・カラス&小林邦昭とタッグを組み、初代タイガーマスク、ミル・マスカラス、ザ・グレート・サスケ組との対戦で久々に日本のファンの前へ姿を現したが、かつて誇った肉体美は面影もなく痩せ細り、体調の悪化が歴然としていた〔『Gスピリッツ Vol.28』、P47。〕。 全盛期の鍛え上げられた肉体、スピードとパワーを兼ね備えたダイナミックなレスリングスタイルは後世の数多のレスラーらに大きな影響を与えた。特にタイガーマスクとの一連の試合を見てレスラーを志した者は多く、WWEや新日本プロレスで活躍したクリス・ベノワもその一人であった。そして今なお、憧れの、あるいは影響を受けた人物として挙げるレスラーは数多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイナマイト・キッド」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dynamite Kid 」があります。 スポンサード リンク
|