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永井 豪(ながい ごう、本名:永井 潔(ながい きよし)、1945年9月6日 - )は、日本の漫画家。石川県輪島市出身。血液型O型〔日刊スポーツ 漫画革命40年 永井豪特集 〕。 石ノ森章太郎のアシスタントを経て、1967年『目明しポリ吉』でデビュー。代表作に『ハレンチ学園』『あばしり一家』『デビルマン』『マジンガーZ』『キューティーハニー』など。少年漫画の世界に性やバイオレンスの表現を大胆に取り入れ、後続の漫画家に大きな影響を与えた。また1972年の『デビルマン』以降、多数のテレビアニメ作品に共同企画者・原作者として関わっている。1980年、『凄ノ王』により第4回講談社漫画賞を受賞した。 1996年より1999年まで日本SF作家クラブ会長、2005年より大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務める。また、2009年より手塚治虫文化賞選考委員を務める。 現存する四大週刊少年誌(週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊少年チャンピオン)及び、休刊した週刊少年誌3誌(週刊ぼくらマガジン、週刊少年キング、週刊少年宝島)全てに連載経験を持つ唯一の漫画家でもある。 == 経歴 == === デビュー === 石川県輪島市に生まれ、1952年から東京都豊島区に住む。豊島区立大塚台小学校(現 豊島区立朋有小学校)から豊島区立西巣鴨中学校(現 豊島区立巣鴨北中学校)を経て東京都立板橋高等学校卒業。幼少期に手塚治虫『ロストワールド』を読んだことをきっかけに漫画家を志すようになる。 高校卒業後、早稲田大学を目指して予備校に通っていたが、3週間止まらない下痢に悩まされて大腸癌と思い込み、自分がこの世に生きていた証として漫画作品を残そうと決意〔〔『激マン!』11話(2巻収録)では、17歳の頃とされている。〕。のち大腸カタルに過ぎなかったことが判明して難なく完治したが、このときの決意をきっかけとして3ヶ月の浪人生活に終止符を打ち、1965年より他の作家のアシスタントになることを目指す。はじめは手塚治虫のアシスタントになるべく手塚プロダクションに出向くが手塚と連絡が付かず代わりに紹介された石ノ森章太郎(当時「石森章太郎」)の下で働くことになる〔永井豪『漫画家』p.35(1992年、実業之日本社)〕。石ノ森が持っていたSFテイストやキャラクターメイキングの方法論は非常に永井に近いものだったようで、石ノ森も自分が世に出た時期が早いだけで「同じ感性の中でものを探している」〔『GO NAGAI ALL HIS WORKS』より〕と彼を評している。この時期の石ノ森アシスタントには野口竜、桜多吾作がいた。 永井自身はストーリー漫画、特にSF志望だったが〔『激マン!』デビルマン編第1話(単行本第1巻収録)〕、石ノ森のアシスタントが多忙を極めストーリー漫画を描いている時間がなく〔『激マン!』デビルマン編第2話(単行本第1巻収録) 永井曰く「意外とセンスがあった」とのこと。〕、デビューの早道として比較的ページ数の少ないギャグ作品に挑み、アシスタント業の傍ら持ち込みを続けていた。1967年、テレビアニメ『ちびっこ怪獣ヤダモン』(ピープロ)漫画化企画を担当することなり、この腕慣らしとしてギャグ短編「目明しポリ吉」を『ぼくら』にてデビュー、続いて『〜ヤダモン』の連載とともにギャグ漫画をコンスタントに描く。 この頃、永井の才能を高く評価していた秋田書店の名物編集者で、当時『冒険王』の編集長であった壁村耐三は、赤塚不二夫に永井を紹介している。しかしそれまでのギャグ・コメディにはないエログロ作品を見た赤塚は永井の作品を酷評する。この赤塚にダメ出しをされた経験で「赤塚先生が描かないようなものを突き詰めて描けばよい」と、永井はスラップスティック、エロ・グロ・ナンセンスを多分に織り込んだギャグ・コメディ作品を描き続ける事を決めた。その後、壁村は永井に働きかけ、『まんが王』にて初のオリジナル連載である『馬子っこきん太』を掲載する。この時に壁村がアシスタントとして紹介した青年が後に永井の右腕となる蛭田充であった〔週刊少年チャンピオン 2011年29号 「ブラック・ジャック創作秘話」より〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永井豪」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Go Nagai 」があります。 スポンサード リンク
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