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ダイニチ映配 : ミニ英和和英辞書
ダイニチ映配[だいにちうつはい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

映配 : [えいはい]
 (n) film distributing company
: [はい]
  1. (n,vs) disposition 2. distribution 3. arrangement

ダイニチ映配 : ウィキペディア日本語版
ダイニチ映配[だいにちうつはい]
ダイニチ映配株式会社(だいにちえいはい)は、1970年から1971年にかけて存在した日本の映画配給会社である。主に日活大映製作の映画を配給した。
== 沿革 ==

=== 成立までの経緯と当時の映画業界 ===

ダイニチ映配を配給ルートとして使用した日活と大映は、1960年代からの日本の映画産業全体の斜陽化のあおりをまともに受けた映画会社だった。
戦後、娯楽として隆盛を見せた日本の映画産業に、陰りが見え隠れするようになったのは、1953年より登場したテレビの急速な普及が大きい。
1958年の11億人をピークに観客動員数が減少の一途をたどり、1963年には半分以下の5億人強にまで落ち込んだ。また制作本数も1960年の547本から下降の一途をたどっていた。1964年には全国の映画館数が5000館を割る。
当時、観客動員No.1だった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。鶴田浩二高倉健藤純子などを擁した任侠シリーズのヒットや、「東映まんがまつり」など子供向けアニメ特撮路線や、自身が出資したNETテレビ(現・テレビ朝日)を中心としたテレビ映画路線への進出に経営をシフトし、映画不況を乗り切っていった。
また、「社長シリーズ」、黒澤明監督の作品群に加え、加山雄三若大将シリーズ古沢憲吾による植木等主演の「無責任シリーズ」、「日本一の男シリーズ」(「クレージー映画」)を擁した東宝や、「大船調」と呼ばれたメロドラマ路線や1960年代前半に隆盛を極めた「松竹ヌーヴェルヴァーグ」のブームが去った後、野村芳太郎によるコント55号主演映画、山田洋次監督の作品群(1969年に渥美清主演で、『男はつらいよ』というロングヒットシリーズを生み出す)松竹も、この苦境の時代を何とか持ちこたえた。
上記の三社はそれに加え、ボウリング場や不動産運用・タクシー会社などのサイドビジネスも経営の安定化に多かれ少なかれ奏功していた。
日活・東宝を除く各社は、プロ野球チームの所有経験があるが、いずれもこの時期までに他会社に売却させている〔東宝は直接所有していなかったが、阪急東宝グループとして阪急ブレーブス(現在のオリックス・バファローズ)と間接的な関係があった。〕〔大映(球団名は『大映スターズ(だいえいスターズ)』→『大映ユニオンズ(だいえいユニオンズ)』→毎日新聞社系の毎日オリオンズと合併して『大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)』→『東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)』)のみ1969年から1971年1月までの間はロッテとの業務提携によるネーミングライツで、チーム名こそ「ロッテオリオンズ」だったが、所有権は永田雅一が保持。現在の千葉ロッテマリーンズ。〕。
一方で、日活では石原裕次郎小林旭を中心としたアクション路線のマンネリ化、それに代わる吉永小百合和泉雅子浜田光夫高橋英樹などの青春路線も全盛期は数年で退潮を食い止めることはできなかった。また社長・堀久作のワンマン体質〔全盛期を支えた専属監督・鈴木清順が、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀から解雇された「事件」もあった。〕から来る放漫経営もあり、1963年石原プロモーションを設立していた石原裕次郎が1969年風林火山を皮切りに他社の映画にも出演するようになるなど、1960年代末には所属俳優の流出と、経営不安が表面化する。1969年には撮影所を、翌1970年には日比谷の本社ビルをも明け渡すことになった。
同様に、大映でも、1966年、3本が立て続けに公開された特撮映画『大魔神』シリーズがヒット。前年1965年からスタートしていた『ガメラ』シリーズも堅調な興行実績を上げて、末期の大映を支える数少ない柱のひとつとなったり、テレビへの対応においても、テレビ室(現・大映テレビの前身)制作の『ザ・ガードマン』は1965年から1971年まで放映される長寿番組となり、その後の大映テレビの基盤を作り上げる実績を上げるプラス面はあったが、その一方で、1967年には映画事業の赤字に起因する大映の巨額負債と経営難が表面化。もともと直営館が少ない脆弱な体質に加え、人気スターの離脱は止まらなくなった。1960年代前半の山本富士子の解雇、長谷川一夫の引退に続き、1967年には勝新太郎の独立、翌1968年には田宮二郎を解雇。最後の頼みであった市川雷蔵1968年直腸癌を発症、義父が永田だった市川は、病をおして映画出演を続けるが、甲斐なく翌1969年に死去、大映は看板スターを失う。
テレビ業界の興隆に押される形で映画産業全体の斜陽化は復しがたい情勢の中、看板スターを相次ぎ失った上、新人スターや若手スタッフの育成もままならない状態に陥った大映・日活両者は、配給網を統合、ダイニチ映配を設立することとなる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダイニチ映配」の詳細全文を読む




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