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ダイムノヴェル (''Dime novel'') は、アメリカで19世紀後半から20世紀初めにかけて出版された安価な大衆向け小説の総称。1860年にビードル社が「ダイムノヴェル (''Dime Novels'') 」の名前で発刊した、定価10セント(1ダイム)の小説シリーズがヒットし、その後に多くの出版社から刊行された同種の様々なシリーズもダイムノヴェルの名で総称される。ビードル社以前に出版されていた、「ストーリー・ウィークリー」「ストーリー・ペーパー」と呼ばれる週刊の物語新聞や、「黄表紙の文学」と呼ばれる作品も含み、また初期の「パルプ・マガジン」を含むこともある。これらはイギリスにおいては「ペニー・ドレッドフル」「シリング・ショッカー」と呼ばれたものに相当し、アメリカの出版社は人気の出たキャラクターのシリーズは海外版も多く発行した。この名称は、1940年の「ウェスタン・ダイムノヴェル(''Western Dime Novels'') 」まで使われる。 ダイムノヴェルの精神は、マスマーケット向けのペーパーバック、漫画、テレビショーや映画に引き継がれている。現代においてダイムノヴェルという用語は、書き飛ばされた、金目当ての作品(:en:Potboiler)、センセーショナルな作品への蔑称、三文小説の別称としても使われている。 ==歴史== アメリカでは1830年代に「ストーリー・ペーパー」と呼ばれる8ページの週刊物語新聞、1840年代になると週刊新聞『ニューワールド』紙の特別版の物語集が、安価な小説誌として刊行されていた。1860年、ニューヨークにあるエラスタス・F.ビードル(''Erastus F.Beadle'')とアーウィン・P.ビードル(''Irwin P. Beadle'')の兄弟のビードル社が、「ビードルズダイムノヴェル」と題した、10セントの小説シリーズの刊行を開始した。この名前は、別の会社で発行される同様の安価本にも対する、20世紀初めまで一般名称となった。 ビードル社の最初の作品は、アン・S.スティーヴンズ『マラエスカ 白人ハンターのインディアン妻』(''Malaeska, the Indian Wife of the White Hunter'')で、1860年6月9日に発売された〔Lyons, p. 156.〕。これは1839年のレディーズ・コンパニオン』誌の2-4月号に連載されたものの再版であるが、ダイムノヴェルとして発売されて数ヶ月で6万5千部を売り上げた〔Lyons, pp. 156–157.〕。ビードル社のダイムノヴェルのサイズは、初期においてもばらつきはあったが、約6.5×4.25インチ(16.5×10.8cm)×4.25インチで、100ページだった。最初の28冊はカバーイラストは無く、鮭色の紙カバーが付いていた。29冊目以降と、最初の28冊の再版から、木版画によるイラストがカバーに付けられたが、価格は10セントのままとされた。このシリーズは計321冊発行され、このジャンルのほとんどに通用するスタイルを作り、不気味で奇妙なストーリーと、メロドラマ風の二重タイトルは1920年代末まで使われた。作品はオリジナルストーリーに加えて、ストーリー・ペーパーなど過去の膨大な出版物を再刊したフロンティア物語も多く、また著作権管理が厳しくなかったため、多くの海外の著作もロイヤリティ無しで出版された。 ダイムノヴェルの人気が増大するにつれ、オリジナルストーリーが強く求められるようになる。本はカバーを変えながら何度も再刊され、他の出版社から再刊されることもあった。〔年をまたいだ再刊が多いことは、初版発行の特定に困難をきたす。一般的には裏カバーの他のタイトルリストから特定できる。ダイムノヴェルは二冊、または四殺が出版されたので、本当の初版がカバーに3回以上掲載されることは無いが、後年にはカバーに100タイトルが掲載された。現在ではこれらの本は希少なので、版数は価格においてそれほど重要ではない。〕 ビードル社ダイムノヴェルは、南北戦争前後の時期の識字率増加により、若い労働者階級の読者に人気となった。戦争が終わると、ジョージ・マンロー、ロバート・デウィットなど多くの競争相手が現れ、それらはタイトルとカバーの色の違いでしか区別できなかった。ビードル&アダムス社も、フランク・スターラインという別ブランドを持っていた。作品の質が高尚な批評家からは蔑まれ、ダイムノヴェルという名前は特定の様式のことではなく、安物でセンセーショナルなフィクションの代名詞となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイムノヴェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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